わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

Change ではなく Transformation で

インプットと思考のぐるぐるがつづく春休み・・・早くもパンクしそう・・・(笑)

土曜日は 子どもの権利条約とSDGsについて学習会
日曜日は ABD(Active Book Dialogue)体験 & 『リフレクティング』を勉強(↓ の本を使ってABDをしたので)

www.amazon.co.jp

月曜日は しごと
火曜日は 「企業化するNPOネオリベラリズム」を考える会(?)

そして今日。

消化不良です(笑)とはいえ、全然別のお料理を食べたという気はしていなくて、同じコース料理のなかのものを順序に従わずに食べた感じ。私の向いている方向というか、いま関心があることに流れが沿っているからそう感じる・・・無意識に自分に必要なことを選べているのかもしれない。

社会を変えたい

「活動家ですか?」と訊かれることがある。さて。活動家なのかな?と考える。

活動家でありたい、とは思う・・・というより、人権を考えたり教えたりしているから、今の社会がこのままでいいとは全然思わないわけで。私があっちこっち学びに出かけたり、友だちと話をしたり、そういった一つひとつが基本的には「社会を変えたい」という思いにつながっている。そういう人間が「活動家」であるのなら、活動家なんだろうか。

まぁ、人から見てどう見えるかという問題なのかもしれない。そこは。

変える、変化・・・というとき、私が志向しているのはTransformation(構造を変える)方なのだな・・・と土曜日に実感した。SDGsの特徴である「変革性」は「Change ではなく Transformation なのだ」という説明を聞いて、「それそれ!」と思ったのだ。

目の前に公正でないできごとがある。あるいは

困っている人がいる。あるいは、自分自身が困っている。

そんなときに、この目の前の状況を何とかしたい、よい方に変えたいと願うのは、おそらく誰しもに起こる心の動きだろう(もちろん、厳しい状況のなかでそう願うことすら奪われてしまう人たちもいる)

いまの日本社会は、そういうときに「個人の努力で乗り切ること」があたりまえだと思いこんでいる、自己責任教の社会だと思う。だから本屋に行けば自己啓発本が平積みだし、地下鉄などに乗っていると、その手の本を熱心に読みふけっているスーツ姿の若い人が常に何人かいる。

でも、それっておかしいよね? と思う。
社会の側は1㎜も変わろうとせず、個人にばかり変化(chenge)を求める。

 

社会の側に問題はないのか? あるから、SDGsなんじゃないのか?

NPOが請け負っていること・・・を考えてみる

NPOの人間も霞を食って生きているわけではないから、暮らしていけるだけの給与がいる。そしてNPOも組織である以上、組織体を維持するためには経費がかかる。

企業や行政では手が届きにくい、隙間を埋める動きが柔軟にできる・・・というのはNPOの強みだ。私が知っているのは教育・福祉関係、国際交流や国際支援関係の団体が多いから、余計にそう感じるのかもしれない。収益が見込めない、法に定めがない、制度でカバーしきれない・・・そんなところで生じる困りごとの解決に、NPOは役だっていると思うし、それは悪いことではない。

だがしかし、だ。

たとえば、海外から日本に来たばかりで日本語がわからない子どもたち。その日本語指導や、日本の学校に不慣れで戸惑う親子へのフォローなど、本来は学校や教育行政で請け負うべき仕事のはずだけれど、今の学校のシステムはそういう子どもの存在を想定していないから、その場その場で「できる対応」を考えてやるしかない、現場任せ。しかも現場は超多忙だ。通訳支援員も正規の職員として雇う手だてや予算がない。そこで地域の国際交流団体やNPOに声がかかる。目の前に困っている子どもや親がいるから放置できない。だから請け負う。子どもや親が助かってよかったよかった。そして、NPOにもそれなりの委託料や謝金が入って(とはいえ、金額は非常に低い)、役に立ててよかったよかった・・・ほんとうにそうか? ということ

・・・そこで隠されてしまうのは何か、ということを考えなければいけない。

たとえば・・・学校の枠(フレーム)が、もう少し柔軟であればなぁと思う。

たとえば、日本の小中学校は留年や飛び級を想定していない。制度として留年できないわけではないが「〇歳は〇年生」という縛りにこだわるし、飛び級は認められないから、来日時に1学年下に編入して、進度に合わせて飛び級させるというような対応ができない。これは義務教育段階でも留年ありの学校文化出身の保護者にすれば、日本の子どもたちは全員が学年相当の学力を1年以内に身につけて進級している、と映るのだが、ほんとうにそうか? そんなことはないはずだ。

 

たとえば、学級担任が2人態勢なら。

たとえば、1クラスの定員が20名程度であれば。

いまここにある学校の定員や予算、仕事量を1㎜も変えずに、そこに日本語のわからない転入生を迎え入れるから「手が回らない」のだと、忘れてはいけないと思う。ぶっちゃけて言えば、学校を変えることができず、予算を要求することもできないから、低予算で請けてくれるNPOに仕事が投げられているという現状を、関わる人たちの献身やサポートされてホッとしている人たちの笑顔で美談にしてはいけないということだ。

いびつだ。フェアじゃない。

特に教育や福祉など人に関わる仕事の場合、NPOなどに外部委託することで人件費コストを下げる・・・ことは同時に学校や行政から「経験の蓄積」 を奪うことでもある。つまり、外部の人に対応を任せている分、内部の人が育たないということだ。ケースワークは経験知なのに、経験知が育たない。外部組織への委託、競争入札・・・請け負う団体が入れ替わるたびに、情報の蓄積はチャラになり、ゼロスタートになる。

 

そして学校に関していえば、いまある枠組みを変えず、人件費を抑制するために「チーム学校」「学校と地域の協働」といった、いかにもよさそうなアイデアが提示されている。でもその中身は非正規雇用のカウンセラーや指導員を増やすだけで、子どもに関わる仕事に責任を持って取り組める条件整備とは程遠い。学校の枠は変わらず、ただ非常勤の助っ人が付け足される。1年契約の不安定雇用に、喜んで長く務める専門家がいるだろうか? 長い目で見れば、かえって高コストではないのかと思うけれど。

・・・と、どうしていいのかわからないことだらけだけれど、いま・ここにあるシステム(構造)の問題を変えること(Transformation)は諦められない。

それは同時に、いま困っている人たちの困りごとが、その人たちの努力不足や失敗の結果などではなく、構造的に生じてしまう問題だというとらえ直しを怠らないということでもある。構造上の問題だから努力しなくてもいいというわけではないが、努力すれば確実に報われる仕組み、努力する方法にアクセスしやすい社会であれば、充分に努力できる人たちを、社会の側が疎外していることだってある。その疎外を問わないまま、自助努力にだけ責任を負わすのはフェアじゃない。
(さらに言えば、自助努力、自己責任を過剰に強いる社会のなかで、「困っています」といえず、支援につながらない人たちが、支援につなっがった人の後ろになんなんと隠れていることも「隠されてしまう問題」の一つだ)

思い出した詩・・・金時鐘「いぶる」

猪飼野詩集』1978 で有名なのは冒頭の「見えない町」

なくても ある町。

そのままのままで

なくなっている町。

電車はなるたけ 遠くを走り

火葬場だけは すぐそこに

しつらえてある町。

みんなが知っていて

地図になく

地図にないから

日本でなく

日本でないから

消えててもよく

どうでもいいから

気ままなものよ。

 この冒頭部分の朗読を、部室で見せられた映像(イレブンPMの録画だったと思う)で聞き、なんだこれは! と思い・・・。それが『猪飼野詩集』という詩集にある詩の一節だと知った。その後、たまたま古本屋で見つけて、即買い。

そのなかにある「いぶる」という詩

承知で

悪いのさ。

こんなたぐいの仕事なら

いつでもありついていられる

身勝手な世間が

しゃくなのさ。

めいっぱいうごいて

うしろめたいとは

割に合わない

汗みずたらしよ。

それでいて

稼ぎときたら

正真 体を張ったものなんだ。

ぜに出しゃあ難のない

お大尽さまより

捨て去りゃ こざっぱりな

市民さんたちより

難儀を押して引き受ける

おれのこの

意地のほどがまっとうさ。 

 ・・・だれかの語りのようなことばが連なり、最後に、このことばを発しているのが産業廃棄物を不法に処理している人物なのだということをほのめかすようにして、詩は終わる。この詩を最初に読んだとき、それこそ的を射すぎて、というより、見ようとしなければ見えない、そのことから目をそむけている自分がいないか? と激しく問われた気がした。ショックだった。引用した部分、「捨て去りゃ こざっぱりな/市民さん」である自分を正面に引きずりだされた感覚。この数行、何度も読み返して憶えてしまった。

昨夜のイベント(というより、初対面の人の方が多かったのに、ごく親しい人たちの気の置けないおしゃべりの場、のようになって心地よかった)で、10年間引きこもりで、支援されていて、それから働き始めて、今は支援することもやっている、という人が、「そもそも、支援して、何をめざしてるの? みんなホワイトカラーになりたいの? 上へ上へ学歴上げることがそんなに大事なの?」という文脈のなかで、産廃処理の仕事に就いていたこともある、という話をし始めた。それはすごく真理を突いた話で、前項の「NPOが請け負ってしまうことで隠されてしまうことは何か」という話でもあったのだけど、その語りを聞きながら、私の頭の中では「ぜに出しゃあ・・・おれのこの/意地のほどがまっとうさ」の数行がリフレインし続けていた。

労働力が足りないという。求人を出しても人が集まらない、若い人はすぐやめていく、厳しい、キツイ、割に合わない仕事。だったら割に合うように、労働条件を上げろという話なのに、そうはならず、難民入管法が改正されたこの国。

厳しい、キツイ、割に合わない仕事はしたくない。そりゃそうだ。
でも、その仕事をだれかがやらなければ社会は回らない。その仕事が嫌だ、自分にはできないと思っている人たちも、暮らしが回らなくなる。だったらそれを引き受ける人たちに敬意を払え。目に見えない敬意でなく、賃金として保障されるように、社会の仕組みを考え直せ。・・・現実には、そんなことを考えもしない人たちの快適さのために、厳しい労働条件に甘んじて働いている大多数の人が見えなくされている。

社会を変えたい。

そのためには、まず見えなくされているものを、見えるように。

目の前の困りごと対応を請け負いながら、困りごとの背後にある構造を見つめること。

構造を作ったのも、支えているのも人間なのだから、変えられるはず。

 

・・・なんてことを考えながら、じゃあどうやって変えていけるかなぁという解は見えていない(笑)「見えない町」に来たければ「たぐってくるのが 条件だ。」と詩人は言った。たぐったその先で出会う人たちと一緒に、おかしいと思うことにはNoと言おう。と思う。とりあえず。

解が見えないからあきらめる。というのが、いちばんやりたくない。やりたくないことはやらない。とりあえず。