わったり☆がったり

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識字から

第4回 識字・日本語学習研究集会 よみかきことば・つながるための学習を支援する

・・・に参加した日曜日。

「識字」とは。

「よみかき」・・・だけど、大阪の、解放運動の「識字学級」はそれだけじゃない。

 

識字運動で大切にされてきたのは、学習機会を奪われてきた人たちが、「なぜ自分がそのような人生を強いられてきたのかをふりかえり、そこから改めて輝く人生と公正な社会を切り拓く主体となっていく」ことです。
(集会パンフレット巻頭言より) 

 そやねん! ここ! ここ!

「識字のおばちゃん」たちの、たくましさ、やさしさ、ユーモア。
けど、ちょっとめんどくさいとこ(笑)の話。

「子どもが部落差別勉強して来て『おかあちゃん、部落って何や』って聞かれたけど答えられへんかったから」と識字学級に来たおばちゃんが、30年経って「いまは自分が差別せんように勉強してんねん」と言い、学校に行けずにうろうろしている中学生を気にかける姿。

身売りされた少女の頃、つらいエピソードを一つひとつ思い出し直し、綴り、読み、また綴り、「とにかくつらかった、二度と思い出したくなかった」「でも書いてよかったと思うねん。若い子らに伝えていかなアカンと思ってん」と言い切る姿。それを学習パートナーとして支えた人の「書くことがエネルギーに変わる瞬間に立ち会った」という体験が「厳しい現実の中を生きる子どもたちは宝。そのエネルギーが社会を変えていく」という教育哲学に昇華していった話。

「よみかき」から引き離され、孤独に生きてきた若者が、「競争主義」「自己責任論」の陰でどんどん見えなくなっている現実。「できない人」を簡単に切り捨てる風潮に、わたしたちは抗えているのか。そこに抗ってきたのが「識字」ではないのか・・・。

わたし自身が、「識字のおばちゃん」たちに出会った20歳そこそこの頃を思い出す。

わたしは、学校が嫌いな子どもだった。

 

学校に行けなくて、文字に拒絶されて、悔しい思いをしてきた人たちの通う「学校」は、わたしが知らない「学校」の世界だった。

わたしは、文字の世界/本の物語のなかに逃げ込むことで、心を支えられてきた子どもだったから、「文字が敵に見える」世界があるなんて、思いもよらないことだった。その人たちが、文字を知り、覚え、綴っていく。そして「文字が敵でなくなる」のだ。なんてすごい世界なんだろう。・・・それまでわたしが逃げ込んできた物語の世界が、ちっぽけに思えて、わたしもおばちゃんたちにハマった。

全体会で、そんなことを思い出していたら、隣に座っていた学習者さんとおぼしきおばちゃんが「これも作文に書けるな。こんど書くわ」と学習パートナーさんと思しき人に話しかけていて、胸がいっぱいになってしまったのだった。

いま、競争に勝つこと至上主義で、負けることはみっともなくて、ダメなこと、価値のないことと切り捨てていく空気が蔓延している。「よみかき」の権利から引き離される人がいることにも気づかず、競争の階段の上ばかり見上げて暮らしていないか--そこを問い続けることが、教育にかかわる者の矜持でなければならない、と思う。

識字のおばちゃんたちが、人生をかけて綴ったような、そんな「綴り方」の経験を持たないで育つ人の方が多いだろう。自分に向き合い、自分を肯定し、思いを伝えるエネルギーに転換していく。そのエネルギーが切り拓く「公正な社会」をともに思い描けたら。

識字は教育の原点だ、と改めて思った日だった。