わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

教員養成系大学で学ぶということ

仕事がいっぱいあるのに、別のことをやり始めてしまう悪癖(笑)

思えば私立高校受験前日に火曜サスペンス劇場緒形拳にうっとり…してた頃から進歩してない人間50年なのだった

という余計な前置きが長いのも悪癖(笑)

いままた、教員志望者が減っている…とか何とかのニュースが駆け巡っていますが、そこでなんだかんだコメントされることを聞いていて考えたことを書きます。いつもだらだら書きなぐりですが、今日は教員養成系大学で学ぶ人たちや、これから教員免許の取れる大学に進学しよう、したい!と考えているみなさんに読んでほしいなと思って書きます。

How toは現場で学べる(学生時代に焦る必要なし!)

とはいえ、私自身も教員養成大学の卒業生なので、教育学部、特に小中高校の教員になりたい!と思って進学する人たちが「早く現場に触れたい!」「授業のやり方が知りたい!」欲求があることは理解できるし、否定もしません。そして「現場に触れる」機会ーできればインターンシップや放課後のサポーターなど、継続的に長くーは多い方がいいとも思っています。

でも一方で、授業の段取りとか教材・教具の扱い方とか、学級経営のさまざまな手段にかかわる知識なんかは、ないよりある方がいいには違いないけれど、学生時代にそこに時間を割かなくていいだろう、と思っています。そもそも、どんなHow toを学んだところで、それを使って向き合う相手がが生身の人間であり「クラス」という生ものである以上、同じやり方は二度と通用しません。どんな教員も、自分の引き出しからあれこれ出しつつ、微妙にマイナーチェンジしながら日々行動しています。そして、そこには「同僚」というファクターもあります。どんなに優れたHow to知識があっても、それを後押ししてくれる、マイナーチェンジの相談ができる、何ならチームで授業研究できる同僚という関係性を築けるか築けないかも大きくかかわってくるわけです。

 

ということは?

 

大事なのはHow toを単に「知る」ことではなく、「なぜそのHow toはうまくいったのか」「そのHow toは、いつ・どこで、どんな事情や条件を背景に編み出されたものなのか」という問いを発していくことでしょう。そしてその問いの向こう側にHow toを駆使する教師の姿より、それが生み出された場にいた子どもたちの姿をとらえることが大切なのだと思うのです。

 

方法論は古びる/哲学は古びない

大学は教育と研究の場です。How toを学ぶだけでいいなら、大学である必要はありません(いまの若い人にはピンと来ない話かとは思いますが、日本の教員養成が敗戦後、師範学校制度を排して、大学(教育研究機関)で教員を養成する/職人としての教員を育てるのではなく、「子どもの育ち」に関する専門知見を持つスペシャリストとしての教員を育てる制度に切り替わったのも、そういうことなのです…)

私自身は大学で国語科教育を学び、高校の現場で国語の教員を10数年勤めました。

学部時代、「七変化の教式」とか「一読総合法」とか「批評読み」とか、まぁいろいろな授業方法を学びました。「授業方法は一つではない」ということを学べたのは確かに現場で役立ちましたが、ふりかえって考えると、それは「押してもダメなら引いてみな」的な役立ち方ではなく、それぞれの方法論が生み出された背景や、その方法で実践された授業を分析し、理論的に裏付けるとこういうことですよね、という抽象化・理論化の作業方法を学んでいたことが大きかったように思います。そしてそこには学習心理学や人間の心身の発達に関する知見、「教育」とは?「授業」とは?を問い続けてきた教育学の知見の裏打ち(エビデンス)があります。

 

つまりは授業の背後にある「哲学」。これを知ることが大事。

 

たとえば「七変化の教式」なんていうのは、1学級に50人ぐらい詰め込んで、しかも子どもが微動だにせず教員の話を聞くことが範とされた戦前の学校環境下で編み出されたものです。だから「教員の説明や指示に子どもが素直に従う」ことを前提にしています。授業1コマを7段階に区切った読解指導の方法論じたいは「おお、なるほど!」と思えるものでも、前提条件が違うところで同じようにできるわけがありません。

では、こんな古めかしい知識は不要かというと、不要ではありません。先の例でいえば、7段階の段取りは学んだ後に忘れてもいいことだと私も思います。が、「よむ」作業(それも「声に出して読む」「黙って読む」「教員の範読を聴きながら」と区別されたもの)と「かく」作業(本文「試写」「話し合い」記録・・・など目的が異なる「かく」の組み合わせ)の相互作用を利用して、「より深い読み」に到達させるという「七変化の教式」が立脚する学習心理学の知見と、「児童がより自分に引き付けた読みを探求したい」という哲学が頭の片隅に残ることには大きな意味があります。授業のなかで「読む作業と書く作業を組み合わせる」「一人で黙々と読む時間と、人が読み上げているのを聴く時間を組み合わせる」ことの効果をふまえた、次の発想が生まれるからです。七変化How toでやっていないけれど、そこにあった理論は授業に生かされるということです。マニュアルがあってその手順通りに行えばうまくいくというならともかく、そうではないのが実際なのだから、「マニュアル通りに遂行できる力」ではなく「マニュアルを自ら生み出せる力」があるほうがいい、それが「専門的に教育学を大学で学んだスペシャリストの力」だと私は思います。

国語科でいうと、ちょうど私が高校の現場に出るあたりから「読解ばかりで表現指導ができてない!」とか言われ始めて、やれディベートだ、プレゼンだ、エッセイだ、となんだかんだ持ち込まれましたが(苦笑)、「そもそも、なぜ表現指導に力を入れたいのか?」「表現指導の前に、子どもの表現したいこと・表現欲とはどんなものなのか?」「表現したいことが先にあって、それに適した方法を選べるかどうかが問題なのでは?(表現したいことがないのに方法だけ学ぶってなに?)」辺りの議論が???な生煮え状態のまま現場に次々とHow toが放り込まれた挙句に、その検証もないまま(?)今度はアクティブラーニングという次のHow toが押し寄せている…という受け止めになってしまっている現場は少なくありません。もったいない話です(誤解のないようにつけ足すと、アクティブラーニングはHow toではなく、すぐれて哲学的な営みを要求するもののはずです・・・本来は)

そしてHow toは、浮かんでは消え、浮かんでは消え…していきます。上に書いたように、「哲学」を知っていればそうはならないけれど、単に「手順」「コツ」の豆知識みたいに消費するのなら、それは古びていく。古びたら捨てて新しい消費財に移っていく…という生き方で進むのも、また一つかなぁとは思います。でもそれにしたところで、新しいアイデアを採用するのかしないのかの判断基準になるのは「哲学」であり、教育学の知見だと思うのです。

そして、それを学ぶために大学の教育学部・教員養成課程はあります。

 

自分なりの「教育哲学」を育てる時間を過ごすこと

哲学…ってなんぞや(笑)

ここでは、「自分自身が出会うさまざまな事象を読み解く際の羅針盤になる考え方/かつ、その読み解きを知的に探究し続ける胆力」ぐらいの意味で使っています。

学校現場(に限らず、ですが)に出ると、出会ったことのない人や出来事に遭遇します。「え、そんな人おる?」と頭真っ白になるぐらいのぶっ飛んだ(あくまで私にとって、です。その人たちにしたら私の方こそ「ぶっ飛んでた」かもしれません 笑)人に出くわしてしまうこともあります。教室運営だのなんだの大学で学んでいるときは「自分が想定できる範囲の児童生徒の動き」しか想定せずに考えていられるけれど、子どもに限らず、他人ってだいたい想定外です(笑)「あんなに方法論学んだのは何だったんだ…」と途方に暮れることだって起きます(頻繁に)。そういうときに、「うまくいかないのは自分の能力不足だ」と自分を責めても事態は動かないし(能力不足は確かにあるかもしれないけれど、教員は一人でやる仕事ではないので自分だけ責めても始まらない)、かといって「あの子は家がちゃんとしてないから」と子ども・家庭に責任転嫁する発想が平気な人は教員に向いていません。だったらどう悩む? という、悩み方の羅針盤/哲学が必要になるわけです。

私にとって、私を救ってきた哲学は

「子ども中心に考える」ことでした。

具体的には、ユネスコの学習権宣言であり、子どもの権利条約であり、世界人権宣言。

 

・・・え、国語科は? と思われたかもしれませんが、私は学生時代に夜間中学校や地域の識字教室で、さまざまな事情から読み書きを学べないまま大人になった人たちが学ぶ姿に出会ったことをとおして、人間にとって「よみかき」がどういうものなのかを考えさせられる機会がたくさんありました。「よみかき」はまさに国語科の根幹なので、そこで考えたことが「学習権宣言」やあまたの人権条約が提示する「哲学」に通じ、国語科教員としての私の哲学になったわけです。

だから、国語の授業を考えるときの根っこにあったのは「本を読む≒世界が広がるという実感を味わって、自分から読書する人になってほしい」という願いだったり、「自分が思うこと・考えたことを相手に伝えたいときに、どうことばを尽くせばいいのか、その方法を一緒に練習したい」という願いだったりしました。要は「その人にとってより良い人生を送るために役立つ、よむ・かく・きく・はなす の力を育てる教科が国語科だ」という哲学です。

学級経営も同じで「みんなが安全・安心して過ごす環境を、どうみんなでつくりあげるか」(←初任のころは、「みんなでつくる」ではなく「私が整えてあげねば」と思っていて、生徒や同僚を頼れずにやらかしましたが 汗)

 

うまくいっているときは、哲学なんて考える必要はないし意識もしません。が、うまくいかないとき、困ったときに、まず自分がどの位置にいるのか、どの方向に向かうのかを考えるために羅針盤は必須アイテムです。

現場で日々課題に追いまくられながら考えるのはけっこう難しい。だからじっくり考える時間を学生の間にしっかり確保して、自分なりの哲学を育てておくことが大事だと思うのです。その基盤があれば、追いまくられても、走りながら考えることができます。現場でつぶれる、あるいは困難に直面したことで折れて辞めてしまう若い人は(すべてではありませんが)、哲学がないまま、本人としてはまじめにHow toを学んで取り入れることにがんばりすぎて疲れてしまった、加えて「自分が未熟だから」に終始してしまって、まわりに甘えたり頼ったりできなかった(それはその人だけの問題ではなく、まわりの同僚が「甘えたらいいよ」という空気を出せているか問題もありますが)、という面がままあります。「一人でがんばらなくていい」というのも哲学です。課題に直面したら、依存先を増やすこと。人に頼れない人が、クラスの子に「困ったら先生を頼ってね」と言っても、実は説得力がない(子どもは見抜くので・・・私自身もやった失敗です)。教育を「教える/教えられる」「支援する/支援される」という一方的な関係性に閉じ込めて考えるか、「授業/クラスをつくるのはここにいる全員」だと相互作用・双方向性に開いて考えるか、これも教育哲学の違いです。

 

さいごに:なぜこんなことを書いたのか

ご縁があって、私はいま母校で非常勤講師をしています。

私自身の「哲学」を育んでくれた母校ですが、文教政策の変遷を反映してか、ずいぶん様変わりしました。特に影響が大きいと私が感じるのは、教育学「研究」を行う教育学部旧帝大系などの一部の大学でよい、国公立「〇〇教育大学」および中堅私学の教員養成課程は、巧く授業をこなせて、学校の多様な仕事を回せる、即戦力になる人材を養成してくれればよい、という文科省の態度です。

学校教員の多忙化、子どもの貧困問題はじめ、学校が向き合わざるを得ない課題の多様化、そういったことに対応できる、難しい局面でも乗り越える力のある「人材」がほしい、という現場の感情は理解できます。そして、そういう多様な問題が学校現場にあることをふまえつつ、それでも「学校の先生になりたい」と志望する高校生や新入生にとっては、そういった人材育成を念頭にした授業・・・「〇〇科教育法」「生徒指導論」「学級経営」「学校インターンシップ」「教育実習」等々がイメージしやすく、「早くそれを学びたい」とか「そういう実務的な授業が多い大学に行きたい」とか考えることも理解できます。そうなると文科省の「即戦力養成」重視という方針は、現場にも学生にも支持されている、何の問題もなさそうに、いっけん、映ります。

でも、縷々書いたように、教員にとって必要なのは「技術」の知識ではなく、日々変化する子どもの姿を柔軟にとらえ続け、日々更新される授業に関する知見(エビデンス)を学び続ける貪欲さと、学ぶ基盤になる力・哲学です。

 

実際問題、文科省がそういう方針で動き出してから何年も経ちましたが、即戦力養成がうまくいっているようにも見えないし、教員志望者が増えたわけでもありません。教員になりたい、子どもの成長に伴走したい、学校を魅力のあるプラットホームにしたい、といった夢を育てるために必要なことは何なのか、現場の多様な課題を解決するために必要なことは何なのか、逆にいえば、なぜこれだけ問題があると言われ続けながら、有効な手がなかなか打てないのか…等々、合わせて考えるべきことはいくらでもあります。そして、そんな多様な課題が現場で山積みになっていることに触れるだけ触れて、そこにどう向き合うかの哲学を育てる時間を設けられることなく、模擬授業だ、インターンシップだ・・・と実務に追いまくった結果として、教員免許を取得できる大学にいる学生に「教員ってしんどいな」「私は力不足かも」と思わせ、翼を折っているのではないかと、私は危惧しています。

初任のころ、授業に困って大学に立ち寄ったり、学生時代に参加していた研究会をまた訪ねたり、と母校を頼っていました。そのたびに、新しい方法論やヒントを教わって、それが役立つこともありましたが、やはり「悩んで混乱したら、哲学に立ち戻れ」と、訪れるたびに気づかせてもらえたことが大きかったです。でも、いまの母校は学生のみなさんにとって、そういう大学になれているのだろうか…と困惑する場面に出くわすことが増えました。もちろん、非常勤の私から見えているのはごく一部でしかありませんが。

実務的な内容を扱う授業ばかり重視して、理念や哲学にかかわる授業を軽視するような言動を見聞きするたび、この大学は学生を「人材にしたいのか、教育者にしたいのか、どちらなの?」と問いたくなります。1回生ならまだしも、2回生、3回生になってもそういうスタンスの学生がいるのは、高等教育機関・大学としておかしくないか? と思うのです。

 

 

教員は学校をつつがなく回すための人材ではありません。

子どもに伴走し、保護者に伴走し、未来をつくっていくプラットフォームで働く、そこで生きていくための哲学をもった個人が集まることが、いい学校をつくると思っています。

大学生活が、そのための助走期間になるよう、よい学びの場であることを探求してほしいし、その場の一端を担いたいと思っています。

 

教えるとは ともに未来を語ること

学ぶとは 真理を胸に刻むこと

  (ルイ・アラゴン