移住連の2020キャンペーンの《ここにいる》というコトバがとても好き。
キャンペーン2020 | 移住連 |Solidarity Network with Migrants Japan -SMJ
というので先日、そのイベントに行ってきました。
2019.1.26.「ここにいるkoko ni iru.」大阪企画
トーク 温又柔×三木幸美「ここで暮らす KOKO DE KURASU.」
…よかったです。心がとても温かくなり、かつ宿題をたくさんもらったような(嫌じゃない宿題ですよ)、とても良い時間を過ごしました。忘れないうちにその感想を。
*写真は当日のメモ。全部メモしたい! けどそんなことせずにひたすら耳を傾けていたい! と葛藤しながらも手が止まらなかった…という代物です(笑)
コトバを切り取らせない
『真ん中の子どもたち』を読んで以来、温又柔さんのファンだったし、三木幸美さんも大好きなので、始まる前からワクワク。そして二人の楽しそうなトークを聴いているうちにわかったのは、お二人ともとてもコトバを大切にしていて、そのスタンスが私はとても好きなんだなぁということ。
「コトバを切り取らせない」というのは三木さんのコトバですが、私なりにそこにまつわって「そうだなぁ」と思った部分を言語化しなおすとこんな感じ
*マジョリティが「こうあってほしい」と思う像を押しつけられる/自分が見たい像に合う部分を「切り取りに来る」感じが不快
*「わかるー」と言って、私の語りを消費される虚しさ。安易にわかったつもりになって、そこで思考停止して、去ってしまう人たち
このへんは、いま読んでいる朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』からも感じていることで。人権課題…というか社会について考えるとき、だれかの経験(語り)から学ぶことはとても大切だと思う一方で、それがだれかの生きた経験である以上、社会問題の教材として消費財にしてしまったらダメだ…ということを常に思う。だから授業で講演に呼ぶときや、だれかから講師を紹介してほしいと頼まれたときなどは、「いいお話が聞けて良かったですー」とカタルシスになって終わり、にさせないためにどうすればいいかをすごく考える。それでも、「人権といえば差別に負けずに頑張って努力した人のいい話」というフレームでやってくる人の、そのフレームを壊すのはとても難しい。
そして、自分が語る側であるときに、ふと陥ってしまう、わかってほしいポイントをわかってもらうために、何かしら整理されたストーリーを作ってしまいそうになる陥穽。
「登場人物に感情移入して消費される小説は書きたくない。自分が物語の中に入って『考える』小説を書きたい」
という温さんは素敵な作家さんだと思ったし、まさに『真ん中の子どもたち』はここに私がいるとしたら、どこにいて、この3人とどう関わるのだろうか…とずっと考えながら読んでいたなぁと思いだした。
小説の登場人物も、現実にいるあの人やこの人も、わたし自身も、だれもがさまざまな面を持っていて、そのどれか一面だけ切り取られたら、それはもうその人ではなくなってしまう。
どの面もわたし。どの面が欠けてもわたしではない。
以前、別の学習会で、こんな「アイデンティティの多様性」を大小さまざまの、相互に噛み合っている歯車のイラストで提示されたことがあった。誰からもよく見える位置にある、大きくて目立つ歯車もあれば、その後ろに隠れてよく見えない、小さな歯車もある。でもどの歯車もすべて連動していて、私を動かしている。どんなに小さくて目立たない歯車でも、それが欠けたら動かなくなる…というイメージ。
私も、わたしを切り取られたくない。では、切り取らせないためにコトバを考え、選んでいるだろうか。…そんなことを、いま考えている。
それと、他者のコトバを安易に切り取ろうとしていないだろうか、ということも。
ルーツのコトバ、ということ
温さんは台湾生まれで幼少期に来日、日本の学校に通い、日本語で育ってきた。
三木さんはお母さんがフィリピン人だけど、日本社会で生きていく娘は日本語で育つほうがいいと考え、ご自身が日本語を学びながら日本語で三木さんを育てた。
だからお二人とも、親のコトバを耳にしながら成長しつつ、第一言語は日本語だ。
「わたしたちのような者が(ルーツの)言語を学ぶのは、忘れていた子守唄を思い出すような感覚なんですよね。ああ、この表現は知ってるな、とか、ああ、こういう意味でこう使うんだな、とか。だからまったく縁のない外国語を学ぶのとは違う楽しさがある」
…でもそんな楽しさにすぐたどり着いたわけではなく、「台湾人なのに話せない自分」「ハーフなのに話せない自分」という「何か足りないわたし」コンプレックスを与えてしまう日本社会。
「どっちでもいいしどっちでもあるのに、『けっきょく、どっちなん?』と周りが(社会が)迫ってくる」
何語が話せるかがものさしになって、人を分けようとする暴力性。
そして、言語にも優劣がつけられている。
一国一言語一民族…という上田万年以来の呪いは深い…
言語の教育は、その呪いを解く呪文を見つける時間にならなければいけないんじゃないだろうか。
カット・インパクト
これはお二人ではなく司会をしていた方の名言。
いま社会ではTwitterにせよInstagramにせよ、「短く切り取った」コトバや映像で、とにかくインパクトがあればいいという表現にあふれていて、みんなが「切り取る」ことに躍起になっている…だから、今日のトークは、そんな空気へのカウンターでもあった。
なるほど!
切り取らせない、というのは文脈を無視させない、文脈に思いを馳せ、考えることをやめさせないということだ。
考えてみれば、「短く切り取った」コトバのやり取りに文脈がないわけではない。
切り取られているからこそ、元の文脈をお仕着せ/既存の「よくあるストーリー」に無意識に当てはめ、勝手な解釈を許してしまっているのではないだろうか。
でも、よくあるストーリーで説明できる人はいないし、説明できる人生もないはずだ。
自分のことを自分のコトバで考え、みずから語ること。
自分が自分であるという、そのものが認められ、尊重されるためのコトバとは?
カット・インパクトな社会が奪っているのは、そんなコトバたちなのだろう。
わたしたちが取り戻さなければならないものが、少し見えた気がした。
「わかる」とか「わからない」とか
「わかる」の暴力性、という話が出た。「安易に『わかる』な!」
「『わかるわー』って言われるより『そっかー…』って返ってくるのが好き。そのまま聴いてもらえた感があると嬉しい」
「『わからない』限界を知っていて、それでも『わかろう』としてくれる人がいい。けどなかなかいない(笑)」
「わかる」ってなんだろうな、と思う。
トークの中で「ののしりコトバ」の話になったとき、温さんが「人をののしりたいときに使っている単語って、本当にそれを選んで、その意味で伝わるの? それでいいの?っていうところが怪しい場合が多いと私は思っていて。相手に打撃を与えられるという点だけで選ばれていて、自分が伝えたい不快感とか抗議とか、そういう中身を反映できていないのではないかなと思うんです」と話されていたけれど、おなじことが「わかる」にもいえる気がする。
だれかと話をしていて『わかるわー』と言っているとき、その中身は「私も同じような経験したわ!」だったり、「あんたが怒ってるのと同じように怒りを感じるわ!」だったり、いろいろだ。体験(事象)の共通性と、感情への共感を、全部「わかるー」一言で片づけて、それでいいと思って使っているけれど、実のところをよく考えたら「なにがわかったんだろう?」と、ちっとも「わからない」部分が見えてくるほうが多いのではないだろうか。怪しい…
これもカット・インパクトと同じで、簡単な単語で軽くテンポよく、ポンポン飛び交うことがよしとされる空気があって、自分の言いたいこと・伝えたいことに合っていない語彙でしか話せていないのかもしれない。そんな社会で、丁寧にコトバを紡ぎ、考えていく時間をどう作っていくのか。そんな場をどう確保するのか。
たぶん、「めんどくさい奴ら」と思われるんだろうけど(笑)
あの会場に集まっていた人たちは、きっとみんなめんどくさい人たちだから、私は一人ではない(笑) めんどくさい人たちとめんどくさくつきあっていくことの楽しさを、どんどん見せつけていく私たちの営みが、対抗文化になっていけばいいなと思う。