わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

「こうもり」な、私。

FBをやっています。基本的に顔見知りの人とだけ、としているけれど、
気がつけば友達100人優に超えていてビビる(笑)

いやー、友だち100人できちゃうもんなんですね(笑)

 

というのはさておき。

つまりは基本的にどういう人なのかをわかっている人しか
私のTL上には表れない。そして、私の日々の行動に繋がっているから
そんなに意見を異にする人もいない
SNSで議論したくない、議論したければ会って直接、と思うから
上述したように「顔見知りだけ」にしているわけで)

 

そんな私のTLですが、ある一つの運動(事象?)を巡って、
真逆の見解、主張が流れてくることも、たまさかあるわけです。
(「ある一つの…」が複数。私の交友関係も結構バラバラだな)

 

で、これがじわじわと精神にくる(笑)
別に、どっちの味方をしろと迫られているわけでもない。
個人的な付き合いもあって、まぁまぁ知っていて、
「なんでこの人とこの人がここで対立しないといけないのかなー」と
思いはするけど、仲裁しようと思うほど親しいわけではない。

うかつに仲裁に入ると、それこそ「どっちの味方やねん!」に
なるのが目に見えているから、モヤモヤしながら眺めている。

 

そういうとき、私って「こうもり」だなぁと思って、
ちょっと自分が嫌になったりするのです。

 

イソップ物語の「こうもり」

獣か鳥か、どっちやねん! ってやつ。

 

もちろん「差別は許しません」というところで「こうもり」にはなりません。

でも、個々人の思いとして「差別は許さない」という人ばかりなのに、
運動体、組織体として動いていると、何かしらぶつかって、
「なんで、そこでもめてるの?」という事態になるのはなんでだろう。

 

そんなことを、90年代ごろからずっと悩ましく思ってきたんだなぁと、
そこになんとなくかぶる「平成の30年」・・・

そして、そんな事態への自分なりの対処として
「こうもり」になることを厭わない、曖昧な立場に甘んじて
じゃあどうするべきなのか、自分の頭で考えて、行動する
「こうもり」であろう、と何度も決意しては、
やっぱり「それでいいのか?」とモヤモヤする繰り返し(苦笑)

 

何歳になっても、こうやってふらふらしています。

でも、できるだけ低いところや狭いところを飛ぶ「こうもり」でいたいです。

 

なんのこっちゃーな文章になってしまったけど、
平成だろうが令和だろうが、私は変わらず
低空飛行のこうもりで生きていきますってことで。