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(2015から引っ越し)参加雑感 植民地教育史研究会第18回大会シンポジウム-植民地支配とモラルの相克-

植民地研究/植民地について考えるとき、【モラル】の問題は無視できない。 私自身がずっと追いかけている芦田惠之助にしても、「良識」があり、自制的で努力家の、いわば【モラル】に満ち溢れた人だ。ひどい体罰を用い、威圧的に現地児童・生徒に接した教員の話も多いが、それに負けないぐらい、心優しく教育熱心な教員の話も残されている。そして、いずれにせよ、当時の大日本帝国大東亜共栄圏の共通意識(≒常識)に照らして、日本語を教え込むことが「道徳的に正しい」と信じているからこそ、熱心に取り組んだのだ。

そしていま、さかんに「モラルの低下」が叫ばれ、「若者のモラル」「研究者のモラル」「教師のモラル」・・・といった話題に事欠かない。そして「モラルの低下」を解決するために「道徳の教科化を念頭に学習指導要領の改定案が検討され始めている(2018年度以降に実施予定)。

しかし、そこでいう【モラル】とは具体的にどういった判断の軸/基準を指しているのか。だれにとっての、どの場面での【モラル】なのか。 今回のシンポジウムは、そういった曖昧で不確定な【モラル】を議論の俎上に載せようとする試みだったと思う。さまざまな視点が提示され、【モラル】をめぐる位相の複雑さを実感するとともに、複雑なものを複雑なまま、その曖昧さを検証していくことが植民地研究にはつきまとうのだと改めて意識することができた。

たとえば、このシンポジウム直後に国会で発言された「八紘一宇」は、1903年に仏教運動家の田中智学が日本的な世界統一の原理として造語し、やがて日本のアジア侵略を正当化するスローガンとなったことばである。発言した三原議員は1938年刊の『建国』(清水芳太郎著)から引用しながら「この八紘一宇という根本原理の中に現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならない」と述べた。つまりあるべき【モラル】だというのだ。

「八紘一宇」とは何か? 三原じゅん子議員が発言した言葉はGHQが禁止していた | ハフポスト

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる。日本は一番強くなって、そして天地の万物を生じた心に合一し、弱い民族のために働いてやらねばならぬぞと仰せられたのであろう。』引用されていたこの箇所だけでも、パターナリズム(家父長的温情主義)丸出しで、私は寒気がした。強い大日本帝国が、長兄として愚鈍で弱い弟たち-アジアの諸国・諸地域の人びと-を教え導いてやらねばならないという【モラル】が、植民地主義を正当化し、植民地政策に疑問をもたず遂行する人びとを支えたのである。「愚鈍で弱い」庇護する対象として一方的に眼差された人びとの側から見れば、主体性の侵害であり、不当な干渉に他ならない。  

討議の際に出ていた発言で、印象的だったものをいくつか挙げておきたい。

・【モラル】といっても、組織/個人、戦前/戦後・・・と位相・文脈の複雑さを踏まえた多面的な理解が必要ではないか。そのとき・その場での「最善を尽くそうとした人びと」の、その位相でのBestを、我々がどう考えていくのか。

・【モラル】というと、なにか普遍性があるかのように思いがち。しかし、たとえば台湾公学校の元教員は「戦前の自分たちの仕事(日本語教育)を全否定されるのはつらい」と言い、教え子の側にも「日本語を叩きこまれたおかげで就職できた」と感謝している人もいる。一方で「日本語が母語にとってかわり、解放後も中国語が身につかなかった」と母語喪失の切なさを訴える人もいる。簡単に評価できないのが現実であり、そのことを重視すべき。

・そのときの国家が是とする【モラル】と、市民個人の良心・良識としての【モラル】がある。たとえば大東亜共栄圏という【モラル】があり、その【モラル】に個人が呑みこまれてしまった。では、容易に国家に回収されない(個人の)【モラル】をもつことは可能なのか。その可能性を探れないのだろうか。

・植民地研究者の【モラル】として、被植民地の資料(当事者の証言等も含む)に対する責任の問題がある。現地の人びと/資料提供者に、成果を返せるか。どの立ち位置からの研究なのかが、常に問われる。

・「一生懸命にやっていると他が見えなくなる」という現象は珍しいことではない。どの範囲の中で、だれと一緒にやっていくのか―視野の広がりを失うと、思念の中で硬直化する。一生懸命やるのはいいことだが、一生懸命だったから許されるというものではない(ex.アイヒマン裁判)。「まじめさ」ゆえに国家に回収される。そこには別種の「まじめさ」-アジアの人びと/当事者と向き合う

・対話する「まじめさ」が欠けていたのだと思う。

・観念的にならない方がいい。具体的・物理的に、当事者と会う、アジアの地を巡る、対話を繰り返すことが大切。観念でだけ考えるから、「まじめさ」や「努力」にひきずられて批判しきれなくなるのではないか。「まじめさ」の検証が必要。  

 

 参考

広辞苑】 モラル 英moral 仏morale ①道徳。倫理。習俗。 ②道徳を単に一般的な規律としてではなく、自己の生き方と密着させて具象化したところに生まれる思想や態度(cfモラリスト)   モラリスト 英moralist 仏moraliste ①道徳至上主義の人。道徳家。 ②人間性と人間の生き方とを探求し、これを主として随筆的・断片的に書き著した人びと。特に16~18世紀フランスのモンテーニュパスカル・ラ=ロシェフーコー・ラ=ブリュイエール・ヴォーヴナルグらの称。20世紀ではA.E.テーラー・アラン・渡辺一夫森有正など。  

三省堂カタカナ辞典】http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/10minnw/035moral.html 「道徳」「倫理」「良識」のことをいいます。モラル(moral)は、「道徳・道義的な」「教訓」などを意味する英語から来ています。現実社会や実人生に対する態度や気持ちのありようをいい、法的根拠による拘束力をもたないもので、宗教のように超越者との関係においてではなく、人間相互の関係において「善悪の判断を伴う感性」のことをいいます。モラルというときは、特に「現実生活に即した道徳」という点がポイントです。