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フェミニズムと私ー2023.01.02放送「100分deフェミニズム」を視聴して

新年早々、刺激的でした(物足りなさもありつつ…第3期・第4期がなんか薄くて)

www.nhk.or.jp

考えさせられたことはいろいろあって、備忘的に。

 

1.伊藤野枝の「階級的断絶」のはなし

ひたすらわかりみ…。
鴻巣友季子さんが「横の旅(交流)と縦の旅(交流)」と紹介されていた話も刺さりまくり…。

私なんてまさに、横の関係や交流は広いけど、縦の交流が全然スカスカ。仕事で出会う国際結婚で日本に来て奮闘している女性たちの方が、よほどご近所同士の縦の交流に努力していて、頭が下がる。

子どものころ、身の回りにいろんな境遇の友達や家族がいて、けっして女性が生きやすい社会ではないということもつきつけられて、でも自分は大学に進学して、そういうコミュニティと切れて、まさに「縦の交流」をしない世界に逃亡してしまって。いや、意識的には、必要だとわかっているけれど、入っていけない。まさに野枝が葛藤したところの「私はお呼びではない」みたいな空気をどうしたらいいのかわからない居心地悪さ。でも横の世界は広がっていく、バランスの悪さ。これは私のLearningEdgeなんよなーと、2023年しょっぱなからつきつけられたのでした。

だから?

どうしましょうかねぇ…。とりあえず『伊藤野枝集』をちゃんと読みたくなった。

そして、加藤陽子さんの説明で初めて知ったけれど、関東大震災時の混乱に乗じて憲兵に虐殺されたことは有名だけれど、それがきちんと明るみに出て軍法会議で裁かれた(その他の虐殺事象については軍法会議にかかっていない)のは、野枝たちが拉致される現場を見た警官が内務卿後藤新平に申告し、後藤が調査を指示したからだという経緯…。そしてそこには、大杉栄不当逮捕されたときに伊藤野枝が後藤宛に出した抗議の手紙(番組内で現物紹介されてたけど、ものすごい長文!)…という経緯があったからでは、というお話が印象的で。

私なんて伊藤野枝の倍ぐらい生きちゃったけど…。なんか恥ずかしい。

2.性暴力と、支援のはなし

ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』は、最近読む本によく登場するので、「これは読まねばってことだよな…と思いつつ、手を出せていなかった本で。

ヒステリー研究から、性暴力被害、幼少期の性的虐待の問題が根っこにあると気づきながら、そこに踏み込まないまま進んだ20世紀前半の心理学…(フロイトよ…)。それが第一次世界大戦やらベトナム戦争やらで兵士のトラウマ≒男性の被害の話になった途端に、研究の俎上に上がって社会問題化し、認知されていく過程が、ホモソーシャルミソジニーそのものやん…だったし、この図式が決して過去のものになっていない恐ろしさに身震いがした。のはさておき。

フェミニズムがあったから、声を上げ続けた人がいたから可視化され、話すことばを得て、話す場が生まれ、「これは自分に起きたことで、怒っていいことなんだ」と共有されていったんだなぁと再確認できたのはとても良かった(私的に)。まず被害が被害として認識されないことには、傷が傷として認知されないことには、回復が始まらない。が、一方で、そういう被害って「女だから」受けるものではあるけど、女にもいろいろあって、他のマイノリティ性が重なったとき(「子ども(年齢)」もそうだと思う)、さらに被害は重くなるし多くなるというところには一言も触れられなかったのが、なんだかなぁ…だった(沖縄の基地/軍隊・暴力が身近…という話が唐突に出てきたけど…。上間さんがいるから沖縄の話になるというだけの流れ?)

あと、ちょっと話は逸れるけれど、

「支援」というと、困っている人を助けて「あげて」、だから支援を受けた人は支援者に「感謝」しているようなイメージで認識しがちな世間と、実際には「感謝」なんてほとんどないし、そんなものを求めていたら支援になんねーよという現場との、決定的なすれ違い(誤解)について最近、考えさせられていることがあって。そのせいで、なんかいろいろと落ち着かない感じがつきまとってしまった(そこは言語化しづらい)。

支援畑だけでなく、教育現場もそうだけど、「困っている」「支援を要する」といってもそこには果てしないグラデーションがあって、自分のことばで「助けて」って言える、あるいは助けてもらって「ありがとうございます」と言える人たちって、実はそんなに深刻じゃない(語弊があるかもだけど、しいて言えば「助けやすい」ところにいる、という意味)。そもそも「困っている」という自覚ができる状況にない、助けてもらっても状況が深刻過ぎるから「は? だから?」みたいな。こうしてもらえると助かるという実感がないし、そもそも「助かる」ってなに? 状態のときって、自分から何か訴えることはないわけだし、気づいたまわりが何をしても本人は「?」状態で、むしろ「寄るな触るなバカ!」って弾き飛ばされたりする。ホントに表現が難しいけれど、世界に信頼に足る人間がいるという実感がズタボロに壊されてしまっている状態の子は「ありがとう」なんて絶対に言わないし、むしろこちらの心身を傷つけるような態度ばっかり取って「それでも私に構うのかい?」と言いたげに睨みつけてくる(これも睨み付ける元気がある子はまだ「だいじょうぶ」なんよな…)。「助けるって言うんならとことん最後までやれよ?ああ?」って、試されてばかり、ということが私も何度か経験がある。そのさなかはホントに辛かったし、それをメインに活動する人には敬意しか沸いてこない。

【追記3】恩知らずな元少女がColaboを見て思うこと

たまたま読んだこの記事が、比較的よくわかる…(最後まで読み切ってもらえないと困る文章。こんなふうに書ける人がなかなかいないと思います)

で、私が落ち着かない感じがするのが、どうしても、どう語ってもなんだか「助けてあげる」感が出てしまうところ。これってジレンマだけど「支援された側」でこういう場・形式で語れることばのある人って、ほんとうに希少だから、どうしても語るのは「支援する側」になりやすい。そして公がそれを担ってくれないこの国で、支援をする側は自分たちの生活も含めて資金調達の必要に常に迫られるわけで、資金調達のためには活動を理解してもらわねばならず…。嫌な話だけど、寄付金を得るために寄付者が好む物語をつい提供しちゃうことだって、全然ある(それをやるまいとして頑張ると「生意気」とか「もっとうまくやらないと」とか言われちゃうし…)。上間さんは現場の実践家でもあるんだけど、今回の出演者って、全員、それこそ伊藤野枝の言う「断絶」の向こう側の人たち/ことばを持つ人たちであるわけで、そういう人たちが上間さんが支援しているような女性たちについて「語る」構図じたいが、暴力スレスレなとこがある。そのことにどれぐらい繊細に気遣えていたんだろうかな…というのが気になった(申し訳ないけど、私は個人的に上野千鶴子さんという人はそこら辺の想像力がなんか足りない気がしていて、苦手。これは学生時代からずっと。そのせいでフェミニズムに対してすごい屈折して生きてきてしまった 苦笑)

それから、

避妊具を見つけたら棄てて怒る彼氏…という話。とんでもないはとんでもないんだけど、一方で「妊娠したら責任取れるのか」「取れないなら避妊に協力しろ」というロジックって「責任を取れる」前提になってるのが気になって仕方がない(そしてそこをつっこむ人が誰もいなかったのが引っかかっている)。実際のところ、パートナーの妊娠に対する「責任」って何なんだろうなと…。結婚? 養育費? 生まれ落ちた瞬間に完全に「主たる養育者」になって子どもに向き合うこと? …けっきょくどれも、1人ではできないことなわけで、1人では責任取れないじゃんよーというか、誰も1人で責任なんか取れないと思う。何か、結婚することが「責任」になるかのようなロジックを安易に利用し続けていることで、けっきょく家父長制の思う壺なんじゃないだろうか…とか(だいたい、結婚してて避妊せず、妻を出産育児のサイクルに縛り付けることで支配している夫だっているわけだし。結婚は責任になんてならないよ…)

3.家父長制とホモソーシャルのはなし

セジウィックの本は知らなかったけど、読みたくなった。というか、「女1,男2」まさに! 『こころ』やん! と納得。すげー納得(夏目漱石フェチ)

そういえば、大学1年生のころ、よくわからないモテ期がきて困惑の嵐だった。けどよくよく考えてみたら、発端は同級生の男の子たちの会話のなかで私の名前が挙がった(らしい)ことだった。誰が気になるか、で名前が挙がった子が「モテる」。源氏物語の「雨夜の品定め」じゃんよ! (紫式部リスペクト…)

あと、高校生ぐらいまでホントに私も「名誉男性」一直線だった…(反省)いや、大学入った後もだな。その結果として、社会運動界隈のオジサンたちにモテ…依怙贔屓されるというわけのわからない状況まで経験してしまった気がする(あんま思い出したくない)。

大学生の頃がちょうど第3波フェミニズム胎動期ぐらいで、上野千鶴子さんが脚光浴びて…な時代。『シンデレラ・コンプレックス』とか『飛ぶのが怖い』とか。『女の子はつくられる』とか。懐かしい…。そんなこんなで理論を学びつつ、そんなこんなの女子で集まっておしゃべりに興じて、自分自身の権利というものについて考えられるようになったのは大きかったと思う。

一方で、大学生のときは人権問題を考えるサークルにいて、同様の活動をしている他大学の学生や大人の団体とも交流があったんだけど、いま考えたらまさにそれがホモソーシャルでガッチガチだったなと(苦笑)。当時も「なんだこれ…」と困惑させられたことは数知れずあって、「人権言いながら女性差別はするんやな。けっ」と陰で文句を言うのがせいぜいだった(何度か、表で言おうとして先輩に止められたことがあった…思い出したらムカついてきた(笑)

私の大学はそもそもの母数が男女比5:5という、4年制にしては珍しい大学で、人権サークル内の男女比もそんな感じだった(やや女子多め?)。でも他大学だと、そもそも母数に女子が少ない(の割には人権サークルの女子率は高かった気がするから、やっぱり女子は何らかのモヤモヤ感があって人権サークルに来たんだろうなと思う)。実際、高校の時の同級生で、私なんかよりよほど勉強ができるのに親から短大しか許可してもらえず、浪人も許されず…の女子友達は珍しくなかった。進学校だったせいか、男子は逆で、本人が職人の道に入りたいのに「大学行っとけ」と怒られて渋々…みたいな子がいて、何だこの社会は? と思った、それがまさに数字に表れていたわけだ…。そのせいなのかなんなのか、人権系のサークルで、人権系のサークルだから、自分自身のマイノリティ性について語り合ったりする関係性のなかで、男子部員が女子部員に対してストーカーになりかける、あるいは合意を取らず行為に及ぶという事案が、ときどき起きた。当時まだストーカーとかデートDVとかいう概念はなかったけど、いまならそういうことばで表せる、まさに人権問題が人権サークル内で起きるという不条理。でも、逆は聞いたことがなかった。常に被害をこうむるのは女子。ふざけんな(怒)とぶっちぎりにブチ切れたこともあるし、男子に「おまえらが男同士で何とかしろ!」と切れたこともあった(苦笑…卒業後縁遠くなった男子たちにいまだに「怖いやつ」認定されたままなことを最近知って笑った…)。被害者になりやすかったのは、ケアのマインドが強いタイプの子だった。辛抱強く人の話を聴いて、一緒に何ができるかを根気よく考えることができる、いわば「寄り添える」人(ホントに、そういう加害者になっちゃう人って、自分が支配できそうな相手を見つける嗅覚は鋭いと思う)。私はストーカー的な依存被害(?)には遭わなかったけど…代わりに(?)ハッキリものが言える、論が立つ女子として先輩男性陣にチヤホヤされた。ウザかった。おかげで女子の関係性に変なヒビが入ることもあったし(それも、けっきょくのところホモソーシャル的な関係性のなかで、誰に評価されるか、どう評価されるかという序列が付けられてたせいだと思う。やるせない…)。そういえば、正規職教諭だったころ、女子校から共学になって数年したらDV加害者になっちゃう男子への対応を迫られる事案が出てきて、生徒指導部の男性陣に「ちゃんと(加害生徒のしんどい面の)話を聞いてあげて!」と言ったら「無理…」と嫌がられたっけ。男性は聞けないし男性には言えない。女性の先生方は丁寧に話を聴いてあげてた。内心猛烈にムカついてはいるんだよ…仕事だからやるんだよ…(なのに「そういうのは女性が得意やん」とか言い出されて「は?」と切れたことは言うまでもありません…)。

いまにして思えば、女子は自分のしんどさとかやりきれなさ、傷つきを女子同士でよくおしゃべりして、たまにケーキ食べ放題に行ったりして、お互いにケアし合って、いろいろ乗り越えてた気がする。まさにホモソーシャルの外側だからこその自由というか、番組で言うところの「半身ははみ出している」世界がちゃんとあった。男子同士も、よくしゃべってたし支え合ってらっしゃる気がしてたけど、それもホモソーシャルな関係性であって、自分自身のケアを置き去りにしてたのかもしれない(だからってケアを女子に依存すんな)。そして半分名誉男性だった私もケアが苦手で、限界に達するまで甘えられず、同性の先輩や友達に心配されて初めて「あ、ヤバい」と気づくようなところがあった。

当時は家父長制は知ってても、ホモソーシャルなんて概念を知らなかった。知っていれば、いろんなことを説明できて、「おお、そうか!」ってなっていたかもしれないと思うと、残念だけど仕方がない(当時まさに1980年代半ば)。きっと私たちのようなモヤモヤを抱えた人たちが気づいて概念化して使って、ここまで育ててきたからいま注目されているのだ。私たちはそうやってバトンをつないできたと自信を持とう。

4.歴史を学ぶ大切さと、文学が映し出す「時代」のはなし

フェミニズム…といいつつ、出演者のうちジェンダー研究者は上野さんだけだった。司会のバービーさんと安部みちこアナウンサーが初学者的な位置で聞き役だったんだと思うけれど、加藤陽子先生が常にメモを取りながら、うなずきながら熱心に他の人の話を聴いておられて、個人的にはすごく素敵だなぁと思った。前々から御著書を通じて尊敬はしていたけど、人柄がこういうとこに出るよな…と。そして、加藤先生は歴史の人なので、歴史的な経緯やその当時の政治状況など、文脈にかかわる発言が多くて、それがとても勉強になった。自分の専門知に立脚しながら、ジェンダー研究については初学者のつもりで謙虚に学ぶ、そういう機会として楽しんでおられる空気感が居心地よくて、なんかずっと加藤先生寄りで番組を見ていた気がする(笑)そういう専門知のある人が聴き手になっている、豪華な番組だった(司会のおふたりも適役だったと私は思う)

同時に、私自身もふだんからそういうふうにものを考える/歴史研究を主として来た人間だからかもしれないけれど、やはりどんな動きも突然わいてくるわけじゃないのだから、そこに至る蓄積、歴史の積み重ねといった知識はあった方が、理解が深まるよなぁと実感した(1.で書いた伊藤野枝の話もそう)「文脈に気づける力」とでもいえばいいのかな。その点、文脈をよく知らないからこそ出てくるバービーさんの発言も大事だった。おかげで知識のある人だけだとスルっと流れてしまうこともきちんと咀嚼された気がする。

加藤先生が紹介された中に伊藤野枝をモデルにした短編小説の話もあり、鴻巣さんが紹介したのも文学で(アトウッド『侍女の物語』『誓願』)、上野さんが紹介したセジウィックの本も、英文学を分析材料にしていて(『男同士の絆ーイギリス文学とホモソーシャルな欲望』)、改めて文学って、書かれた時代の状況と価値観を映し出す鏡なんだなということも実感した。

私は国語の先生だったけど、文学作品が教材になっているときに、作家の情報を詳しく教えて作家の内面がいかに作品に投影されているか…に分け入っていくような授業が嫌いで(文学作品としてそこにある作品の文章だけをまずしっかり読み込めよ!主義なもので)、あまり作品の外の情報に注目したくない…と思いつつやっていた。とはいえ、書かれた当時の価値観の問題を無視すると、何を書いているのかよくわからないということはまぁまぁあって、たとえば夏目漱石の『こころ』だと、「お嬢さん」本人にではなく、その母親に「お嬢さんを妻にください」と言い出すのとか、現代高校生にしたら「キモイ」としか思えない。そこを家父長制がね…家制度っていってね…とか説明してきた。でも「なんでお母さんに先! キモっ!」といってる高校生にしたって、結婚に際して両親が反対したり渋い顔したりしたら動揺したり、家族から祝福されない結婚なんて…と急に態度を翻したりする可能性はゼロじゃない。それって同じことだぞ? ってとこまでつっこめたよな…といまになって気づく(家父長制は過去の価値観じゃないってこと)。『こころ』は好きな教材だったので、いろんな授業展開を試して生徒と遊んだんだけど、そうか、ホモソーシャルか! スッキリするな…もっと早く知っていれば(ここは私の勉強不足…セジウィックの本は既に出ていたはず)

そういえば、女子だけで授業をしていたときは森鴎外舞姫』でほぼほぼ豊太郎への怒りが爆発する展開になっちゃってたのに、共学クラスだと「いや、それは悩む…」と言い出す男子が必ずいて、おもしろいなぁと思っていた(いまにして思えば、教室で恋愛観について侃々諤々やりあってた、けどそれは異性愛前提、って時間だったわけで、モヤってた子もいたであろうと思うと申し訳ない。不勉強の極み)。でもあれも、豊太郎が官費留学生のエリートだから云々とかいう事情ではなく、ホモソーシャルで説明するとスッキリする。要は恋愛と仕事のはざまで悩んでいるわけじゃない。ホモソーシャルな社会秩序の階段をすいすい登ってた男子が、その秩序から出るか出ないかという話。エリスは秩序のはるか外側にいて、妻にすることもできない(したら、その秩序に残れない)。そういう話だったなのだな……。
(関係ないけど、鴎外なら『舞姫』なんかより『高瀬舟』『最後の一句』を教科書に残してほしいと私は思う)

文学に親しむことも、社会を考えるために必要なことだなと改めて思う。昨今「実用的な文章」流行りで、高校の現代文教科書から文学作品が減る!と騒ぎになってて、個人的には、教科書に載ってないなら自主教材投げ込み放題じゃーんとか(私ならそうする)、あんまり気にしてなかったんだけど、こうして考えると、歴史を軽視する空気と、文学を軽視する空気は、社会を考えさせまいとする車の両輪なのかもしれない。「文脈を読む」って、もともと文学のことばだもんな。社会のことも、人のことばや態度のことも、そこにある「文脈を読む力」が育まれていなかったら、要は「聴く力」のある人が育っていなかったら、「なかったこと」にされてしまうのだろう。

じっくり文学作品に親しむこと。歴史を学ぶこと。

今年はそのことを気にかけながら進みたくなった。

 

オマケ1)この番組、主演者が女性ばかりってことで、「男性ばっかり並ぶ番組はいくらでもあるんだからいいじゃん?」というのはもっともなんだけど、私的にはホモソーシャルについては男性に説明してほしかった。というか、男性でもケア的な接し方とか、相手の話をきちんと聴いて応答的に対話することとか、ちゃんとできるんだぞ?ってことを見せてくれる男性(マジョリティ シス男性)に出てほしかった。女性だけが並ぶ番組は、このテーマじゃないとこで実現してほしい。「あぁ、フェミニズムだから女性を集めたのね」としか思われないよ。現状…。

オマケ2)やっぱりどうしてもモヤるのは、マイノリティ女性やトランス女性の存在がガン無視されてた気がすること。基本のきを説明するためにシンプルに「女vs男」にしました!ってことだろうとは思うものの。第3波、第4波フェミニズムに言及したのに、「インターセクショナリティ」が一言も出てこないって、なんだかなぁ…。