わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

SUGA/ AgustD/ 민윤기(ミンユンギ)…と、RM/김남준(キムナムジュン)

4月にソロアルバム『D-day』が出て、ワールドツアー。

そして昨日が、ソウルでのアンコール公演日程の最終日。

다 끝났다! のユンギさん囲んでヒョンライン4人(リーダーRMもこうなると末っ子ちゃん然としてて可愛い。頼もしいヒョン2人と、94's親友のホビと2人してグラサン。可愛い)
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(我ながら推しのインスタ投稿に1分で反応してしまった反応速度にビックリ)

最終日、まさかのナムジュン登場で、「이상하지 않은가 (Strange)」
そして、まだ曲名がついていない作業中の新曲歌うナムジュン
……ちょっと待ってよ(何をや 笑)

新曲エモかった。アルバム待ってます。はい(←語彙力…)

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いや、ナムジュン来るなら「Strange」だよな…とは思ってたよ。
(↑はホビのインスタ。この写真をホビが…と胸を熱くするオタク)

youtu.be

병든 세상에 병들지 않은 자
病んだ世界で病んでいない者を

돌연변이 취급하는 게 
突然変異扱いするのは

이상하지 않아 난 더
変じゃないか  俺はましてや

눈 감은 세상에서 눈 뜬 자
目を閉じた世界で目を開いた者

혼자만 눈 떴다는 게 
一人だけ目を覚ましたって事のほうが

훨씬 이상해 난
よっぽど変だろ  俺は

평화를 원하는 자 
平和を望む者

싸움을 원하는 자
争いたい者

손바닥 뒤집듯  
手のひらをひっくり返したように

바뀌는 말장난
変わる戯言

꿈은 옵션이 된 그런 세상인데
夢はオプションになってしまった、そんな世界なんだから

정답은 없어 그게 정답이야
‘正解なんてない’ それが答えだ

BTSの心臓(SUGA)と頭脳(RM)なんて言われている2人。
BTSの楽曲は、J-hopeも入れて3人が中心になっての合作形式だけれど、それぞれのラップパートにそれぞれの個性がやはり出ていて、似ているようで違う。そこにさらに他のメンバーのアイデアやキャラクターも加わるからBTSは多彩で飽きさせないのだけど、

ときどき考える。

なぜ私はユンギ推しではなくナムジュン推しなのか(超どうでもいい…)

ところがこれが、考え始めると止まらないしまとまらない(笑)

ことばにしてしまうと、2人はとても似ている気がするのだけど(おそらくどっち推しのオタクもみんな言うと思う)2人は全然違う。むしろ、よくこの2人が噛み合ったなと思う(昔はよくケンカになったみたいだけど、だろうなぁと思うし、さぞや激しかったんであろうな…とも思う)けどそれを説明するのが難しい。

でも、ソロ活動が本格化したらその輪郭がくっきりしてきた気がする。

ユンギはとにかく「生っぽい」。剥き出しの、未加工の、生々しい感触とともにひたすら情念を叩きつけてくる。生々しい。心臓そのものの温かさが迫ってくる感じ。

ナムジュンには照れがあって、剝き出しのままそれを人に差し出せない。本人も「個人的なことをいかに普遍的に昇華するかがアート」と言っていたことがあるけれど、あくまで自分自身の経験と思いに正直ではあるけれど、それを丁寧に並べ直し、再構成してから初めて外に出してみせる感じ。温かいけど、心臓の温かさではなく、隣で「えっと、だからね…」と説明してくれる息遣いの温かさ。

2人ともラッパーだから、ことばの達人ではあるけれど、
ユンギの歌は「ナラティブな語り」
ナムジュンの歌は「詩」

もっと具体的にいうと、ユンギの歌は、たとえば識字教室に通うおっちゃんやおばちゃんがとりとめなく語る「語り」で、それが整理され再構成されて「綴り方」に昇華したものがナムジュンの歌、という感じ(一部の人にしか伝わりそうにない喩えだなw)

で、私はとりとめもない、おっちゃんやおばちゃんたちのおしゃべりを聴いているのも好きだけど、考えて書き直して「綴り方」になっていく過程と、できあがった作品が大好きで、だからたぶん、ユンギ推しではなくナムジュン推しなんだろうな、と思う。

で、この2人がおもしろいのは、ラッパーとしては「理のナムジュン・情のユンギ」なのに、プロデュース側面(?)となると真逆になること。
とことん構成を考え抜いて理知的に細部まで作りこむことを厭わない職人肌ユンギと、感覚的に「やりたいのはこんな感じ!」と自分の好みとこだわりを発揮してしまうオタク気質ナムジュン(笑)理と情が逆転(だから最初、私は「なんでユンギが心臓でナムジュンが頭脳なんだろう?逆じゃないの?」と思ってたす…)

で、やっぱり私は自分自身もそういうとこあるんよな…で、ナムジュンに共感度が高いわけですね(自分に都合よく解釈しているという面もあるとは思う、オタクだからw)

でも、そういう2人が出会って、「どうやったら売れるのか」を必死で考えて毎日ヒットチャート睨んで曲を聴いて研究していた…日々が防弾少年団をつくったわけで、出会ってくれてありがとうしかありません。ありがとね、ナムギ。尊いです(そして2人の喧嘩に挟まれていたであろうホビたん。ありがとう!)

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……いや、尊い

 

ところで、今回のアンコール日程3日間、ワールドツアー本編とはセットリストが変わっていて、入ったのが「어땠을까 / Dear my friend

youtu.be

短編小説のような。でもとりとめもなくひとり呟き続けてきた語りのような歌。私も初めて聞いたときは衝撃でした。

これも『D-2』の、最後に収録されている曲ですが…。

BTSのSUGA名義では出せない曲。だからソロのラッパーとしてAgustD名義で吐き出した曲。ミンユンギ個人の内面を、あえて俯瞰するための別のペルソナとしてのAgustD。『D-day』は、そこを統合していこうという時間なんだろうなぁと、アルバムの発表からツアーを通して何となくは感じていたけれど、あぁ、いよいよ統合していくんだね…と。

たぶん、昇華されたわけでも、忘れたわけでも、何でもないのだろうけれど、生々しい記憶の、その生々しい感情のままに、「かつてそういうことがあった」という事実そのままに全部吞み込んで、次に進むことにしたよ…ということなんだろうな(と書いていたら泣きそう…)。吹っ切るというのとも違う。辛かった、切なかった、あんな思いはしたくなかったし金輪際ごめんだけど、それでも、嫌な思い出ばっかりなわけじゃないんだよ…の複雑さそのまま、大事に自分の血肉にして、手放す過程として。

メンバーがいて、ツアーをともにした仲間がいて、ARMYがいて、「だから俺は大丈夫だ」という安心感のなかだから、歌いながら泣き崩れてしまうユンギ。そしてユンギの代わりに歌うARMYが美しかった。これはどういう世界を見せられているのだろう、という……。そして、舞台がはねた後の、「すっかり全部終わっちゃいました!」と笑うユンギの顔が、「清々しい」という辞書項目の横に写真を載せたいぐらいの「清々しい」としか形容しようのない表情で、なんか本当に、ここまでとこれからを区切って、この人は次へ行くんだなぁと思ったのでした。

そういう舞台で、ナムジュンが
「I see you, come back to me」という歌詞の新曲を披露していたんだから…。

昨日はすごい夜でした。

 

そして一夜明けて、先ほど。

ユンギさん、軍務に就くための手続き開始のお知らせが来ました。

切ないけれど。行ってらっしゃい。

자본은 꿈을 담보로 
資本は夢を担保にとり

희망이라는 모르핀을 주입해
希望というモルヒネを注入する

부는 부를 창궐하고 탐을 시험해
富は富を拡散させ欲を試す

부자는 가난조차 탐해 탐욕스럽게
金持ちは貧困さえむさぼる 貪欲に

「이상하지 않은가 (Strange)」

クソみたいなハイパー資本主義の世界に尊厳を奪われないように。私もできる限り抗いながら待ってるからね。

2023年6月を、未来はどうふりかえるだろう

2年前、こんなふうに書いていた。

jihyang-tomo.hatenablog.com

油断大敵…とは思っていた。けれどまさか、ほぼそのままの形で出してくるとは思わないじゃん?…で驚愕したのは3月。

すぐに署名が始まり、国会が始まるのに合わせて座り込みや集会や…と2年前と同じような動きが始まった。2年前と異なったのは、衆議院法務委員会から衆議院本会議にかけて、なぜか野党が「協力/修正協議」などという路線で動き出してしまったことだった。は? 何言ってんだ? ク〇立憲民主党…とどんどん口が悪くなりましたが、法務委員会終盤になってようやく「この法案はダメだ」と反対姿勢に立ってくれた。

…今、こんなことをメモしているのは、立憲民主党を責めたいわけではなくて、この2年間の間に、いったい何が変わって、こんなに形勢不利になってたんだろうかということを総括しとかないとな…と思うから。他意はない(立憲さん、私はいちおう支持者です…)

反転攻勢に出てみたら、出るわ出るわの入管のいい加減さ。入管って、法務省の組織だよね? 法律と法治と人権守る仕事なの、法務省ですよね? と怒髪天を衝いたよね…。

立法事実が何しろいい加減だった。そのあたりは既にこちらにまとまっているので、こちらで。

d4p.world

入管法の内容どうこう以前に、こんなものを通す立法機関ってなんだ? 日本は議会制民主主義の国ですよね? 前々からヤバいとは思っていたけれど、事ここにきて、ホントに比喩でなく眩暈で倒れそうだった。え? 独裁国家

でも、通ってしまった。

ただ、この過程でヤバさに気づいた市民が増えて、国会前に集結した人たちはもとより、地方でもあちこちで集会やデモがあったし、勝手に「ぼっちスタンディング」だの「おうちデモ」とぬいぐるみや人形にプラか持たせた写真をSNSに上げるだの、カバンなんかに「入管法改悪反対」と見えるようにくっつけて通勤通学するだのといった、市民の自発的運動が生まれて、いまも収まってないのは心強い。わずかな救いの光。施行までの後1年、廃案に追い込むというクソ難しい目標設定ではあるけど、上位法である難民条約を武器に、難民条約違反行為は止めなければ。みんながんばろう……。

毎日そんなことを言い聞かせながら、ふと隣をみたら、これまた差別解消、理解増進どころか、差別を助長して教育活動ストップさせかねない「LGBT理解増進法案」が衆議院通過……は?

news.yahoo.co.jp

松岡さんの記事は、いつもとてもわかりやすい。マジョリティ、どんだけ迷惑かけたら気が済むんだよ……と、いつもいつもいち早く解説してくれる松岡さんに申し訳ない&感謝でいっぱいです。ホントにごめんなさい。

上の記事に付け加えて、私がホントに頭にきたのは、「全ての国民の安心に留意する指針を、政府が策定する」の付け足しだった。

はあ?

「安心」ってなんだ。すべての国民の?

要は、「世の中には出生時に割り振られたジェンダーに依存のない男女2種類しかおらず異性愛が当然であることを妄信して疑わないマジョリティさまのご機嫌を損ねない範囲内で」教育も啓発もカムアウトも社会生活もやりなさって、そう言いたいわけだろ?ク〇…(最近、誰かさんたちのせいでNGワードに抵抗がなくなってきた。怒るの大事)

こんな文言が入ったら、ここ数年で前進してきた自治体などのさまざまな取り組みに対しても「あれ気持ち悪い、心理的に安心できないからやめてくれ」とマジョリティさまが言いだしたら、再検討…ってことになりかねない。パートナーシップ条例ができて良かったね…というマイノリティ側の「安心」はどうなるんだ? そして同性婚の法制化という目標はさらに遠のくんじゃないか。(一方で裁判で次々と違憲判決が出ているんだけど、現国会はそんなこともガン無視か? 三権分立って知ってる? 憲法の人権条項、理解してる? ク〇…)

 

6月は、世界難民デーがあって、毎年さまざまなイベントがある月だ。

難民の人たちの話を聞いたり、映画を観たり、お料理をご馳走になったり。

そして6月はプライド月間だ。

レインボーパレードが世界中で開催される。私もレインボーのバッジをつけている。

なのにこの国は、ことごとくそれに背を向けて、マイノリティの「安心」も「命」もどうでもいいんだという態度を公然と示してしまった。

嘆いていても仕方がない。こういう国に生きているという現実を前にして、抗っていくしかない。そして実際、入管法が通ろうが通ろうまいが、日々の支援活動でやっていることは変化しない。むしろ1年後の施行を考えて、それまでに1人でも多くの人に在留許可を出させていくために、私たちは、それぞれに走るだろう。

できることは何か。勝てなくても、あきらめない。勝てなくても、負けないように踏ん張りたい。

 

そういう備忘として、書きました。

 

私と推しはたぶん似ている

どうでもいいことを書きます(笑)

単に私の精神の安定のため(4月、慣れない仕事も入り、韓国語教室にも行くことにしたので余裕がなく、そのせいなのかなんなのか、このところ毎朝、めまい初期症状みたいなやつがでて調子悪い…活動し始めると収まる、めまい未満的な感じですが)

つくづく、私という人間は「書く:言語化して吐き出す」ことによって精神の均衡を保っているのであるな…と思っていたら、RM氏が同じようなことを言ってたことがあるらしく「うんうん、たぶんそうだと思ってたよ…」とまた好きが深まる(笑)

さっきインスタ開けたらこんな写真が投稿されてて、これまた私の萌えポイントをよく知ってるよなぁという気分にさせられるマジック(笑)


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演劇少女だったからね。(私が扱ってたのは照明用のコード類だけど)この、床の上にコードが何本も錯綜しちゃってる感じ、萌えます…(でもって、このコードの巻き方。これ、音響さんの巻き方なのよね……)

お芝居観に行ってもコンサート観に行っても、照明の配置と使い方がいになって仕方がないというオタクです。バックステージ大好き。ステージの仕込みをチェックして動線確認して…というビハインドみるたびに萌え萌え(笑)

私が演劇が好きだったのは、みんながバラバラに自分のやるべきことをやって、それが一つのコンセプトのもとに結集したときに醸し出すハーモニーのおもしろさと、結集してから始まる調整のやりとり。いい舞台にするために、ああでもないこうでもないと知恵を出して話し合って決めていく、そういうとこ。BTSだけでなく、ステージで仕事をする人はみんなそうだと思うけれど、チームで仕事するんだけど、一人ひとりの個が大切というのか…滅私奉公的に協力し合うのではなくて、ゴリゴリに自己主張しながら「ともにはたらく」感じが大好きで。

BTS7人のわちゃわちゃ感、仲良し感が好きな人は多いと思うけれど、単なる仲良しではないのがいいんだと思うんですよね…。それぞれ得手不得手も違うし、こだわりも違うし、それはちゃんと主張して、相手の話もちゃんと聞いて、「じゃあどうする?」とすり合わせていく感じが、とても好き。

そして、ホビの入隊やソロコンに合わせていろんなこと話すユンギのことばを聞きながら、そういうチームを軸になって支えてきたリーダーのナムジュンと、そこにぴったりくっついてフォローしてきたホビの94sコンビ、さらに一回り大きな視点で見守ってきたジニョンとユンギヒョン…ということを感じて、1人勝手に胸アツになって、このチームワーク最高やん!チーム最高やん!とさらに沼にずぶずぶはまる…(笑)

そして、思ったんですよね。自分たちはこういうチームを作り上げたんだ!という自負と自信があるからこそ、いま自由にソロ活に羽ばたいているんだろうなと。BTSという堅固なプラットフォームがあって、そこは揺るがない。だからそこを起点に、7人それぞれが羽ばたいて、別の空気を吸って学んで、また戻ってくる。戻ってきたときに新しい化学変化が起きて、さらにBTSは化けていくのだろうなと。

だよねー、ナムジュナ!

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いつもこういう歩き後ろ姿撮影してくれてる方、神です…。

何かだらっとした、重心の低い歩き方。背中だけど「ふふん」って笑っていそうな、ちょっとうつむき加減で歩いてる感じ…。

5月4日の夜に、かれが長文の投稿をして、またそれがニュースになってしまったりしていて…「話したいことはあるけれど全部は表に出せない」もどかしさが切ない…。

https://1drv.ms/w/s!ApJTR2UovGlRgY9gQSkveto9xbbm1w?e=TF88Xc

私のいまの韓国語学習熱は、とにかくかれの発することばをそのまま受け取りたい!なので、訳してみました(pwは940912)

でもほんとうに、こうやって「書く」こと、表現することがかれの根幹なのだろうなと思います。私も言語認識強めの、ことばが勝っちゃうタイプなので…(と、勝手に同じだと思って共感しているオタク)

そして、ことばが勝ってしまうからこそ、ことばではない表現に惹かれるところも多分にあって。私ももともと美術展とか行くのは好きな方だったのですが、忙しかったりなんやかやで、ちょっと遠ざかりがちだったのが、かれを好きになって「行きたいと思ったら行こう!」と少しフットワークが軽くなったのも好きの効用。ありがとうね…。そこでも、かれは文学の、「僕の始まりは詩」の人なんだなぁ、作家、作品に詩/Storyを感じ取るのが好きなんじゃないかな?と思ったりしています…。

 

そういう、表現者である人、個を個として大切にしている人にとって、個を押し殺さなければならない18ヶ月が何をもたらすのだろう…と何度も考えては答えが出ない問いを繰り返して…。いつのまにかジンニムは約5ヶ月、ホビも1ヶ月を終えようとしていて、次はナムジュン。相変わらず東アジアは不穏で、訓練が訓練としてだけ淡々と消化されていってほしいと強く強く念じています。

そういえば、あの6月会食から約1年経つんだな。体感的には3年分ぐらいの濃密な1年でしたよ……。ソロ活動、釜山コン、アルバム発表……。「自分だけの時間」をしっかり過ごしたことで、さらに表現者の欲が出て動き回っていることを折々に見せてくれることもありがたいし、一方で入隊前にできることをできる限りやっておきたいという切なさを、1人では背負いきれないということなのかなぁとも思う(それはメンバーや身近なお友達と共有してきいてもらえばいいと思うのに、ファンにまでみせてくれる誠実さ…それはそれで、有難くもあり、そんな気はもう遣わなくていいよと言ってあげたい気もする)

 

最後の写真は、私の誕生日にたまたまあがってた、ケナリの写真。

こういうの、写真に撮ってふっと共有してくれるところも素敵。

そういう自由も18ヶ月奪われるんだなぁと思うと、ほんとうに胸が張り裂ける
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あらゆる暴力にNoを言い続ける

ホビ(J-hope)が入隊した。兵役義務の履行。18か月間。

7人そろってのお見送り写真がSNSにアップされた(2023年4月18日午後16:00ごろ)。

今朝ぼんやり見ていた時計代わりのTVの星占いで、私の星座は11位で、「今日は考えがまとまらない日」と言われて、「そりゃそうでしょうともさ!」と独り言ちた。

 

ジンくんが入隊した12月も、モヤモヤなんやかんや書いた(そしていてもたってもいられなくなって、ちょうど名古屋に来てたリヒター展に行ってしまったんだった)。今回は幸か不幸か新学期のせいで怒涛のスケジュール具合。考えないようにして淡々と仕事…といいつつ、やってることが「人権」の授業準備なものだから、どうしても考えはそっち方向へ回転し始めてしまう。

 

でもね。

考えたところで、どう考えたらいいのか、だんだんわからなくなってきた。

わからない、というよりも、決定的な「わかりあえなさ」を感じてしまっている。

 

jihyang-tomo.hatenablog.co

基本的に、この時考えていたことと変わってはいない。

ただ、この間のRMやSUGAの言動から、彼らがもうずっと前から兵役による活動空白をどう乗り切るかについて考え抜いてきて、そのための準備や仕込みに余念がなかったことをひしひしと感じさせられて、それがつらい。韓国でボーイズグループとして活動する人たちが、それを考えて準備するのは当然のことだ。一方で私自身は「国連でスピーチしたり大統領の特使になったり、国のために働いてんだから兵役免除ぐらいすればいいのに」程度に考えていた。この間にある断絶。

韓国で、男の子の親になって、男の子を育てていくこと。

男の子として生まれて、育つこと。

ずっと「兵役」はそこにあったのだということ。

そういう社会のなかで「僕が僕であること」にこだわり、それをやり続けてきたということ。あらためて尊敬する。

(「尊敬ってなんやねん」と歌う「Respect」という曲もあるけど、ホントに「なんやねん(ゲラゲラ)」とやってる2人が眩しい。BTSの頭脳2人を前に「いや、すまない…」と首を垂れるばかり)

どういう精神力なんだろうか、と思う。
(まぁ、そういう人たちだからポップスターなのだと言われればその通り…)

兵役についてまじめに考えるようになって、あれこれ勉強して韓国社会に対する私の解像度がかなり上がってきたこの半年(体感的には3年ぐらい経っているのだけど、考えてみたらたかだか去年の6月以降だった)。これまでに出会ってきたさまざまな「韓国の人たち」を思い返して、私ったら何にもわかってなかったなぁと思うことばかりだ。

すぐ隣に戦争が口を開けているところで立ち上がるのだから、そりゃぁ人権運動も差別撤廃運動も、腹のくくり方が私たちとは根本的に違うに決まっている。違う違うと思ってはきたけど。

 

だからって、あきらめはしないけど。

「わかりあえない」ことから始めていくんだけど。

 

ホビは、兵役前のスケジュールを全部こなして休みに入った途端、燃え尽き症候群的にぼんやりしてしまったと話していた。「ぼんやり」のなかに、寂しさとか不安とか、いろいろなことが詰まっているのも伝わってきて、聞き取りきれない韓国語を聞きながら泣いていた。「みんな行くことだから」と何度も言い、「元気で行ってきます」「待っててね」を繰り返す優しいホビ。希望という名を背負ってきたかれが軍隊に行く。

あんなに怖がりで、繊細で、ケアマインドの塊のような子が、軍隊なんて大丈夫なんだろうか、ご家族もさぞ心配だろうとか、キリもなく考えてしまう。そして、これまでもこれからも「みんな行くことだから」と、何でもないことのように「みんな行く」のだ。でも実際には何でもないことなんてない。社会のあり方、価値観、文化に、徴兵制は深く影を落としている。その矛盾、理不尽、納得のいかなさに対して、吠えて、抗って、歌ってきた防弾少年団が軍隊に行く矛盾。

 

かれらだって、十分わかっているのだろうと思う。

 

そう考えながら、あるいは…とも考える。

韓国で男子であるというポジション。かれらはそもそもマジョリティだ。

アンダードッグから始めて苦労をしているとはいっても。

そのポジションで持てる力を、社会のために善いことに使いたいとかれらが願って行動してきたことは間違いない。けど、あくまでもマジョリティの価値観からはみ出さない範囲内で、社会とハレーションを起こさない範囲内に収めているなと感じることが、最近ときどき、ある。それはトップドッグになってしまったが故の、不自由さなのか…。必要な気遣いと、不必要な忖度との間。そこで、極端な男社会からこぼれ落ちた「小さきもの」から視線を無意識に外してはいないだろうか。みようとしなければみえない世界。兵役を前に、あえて「みようとしない」選択をしているのかもしれない。意識的にというよりも「それどころじゃない」から。

それでも視線を外さないでほしいと思う気もちと、もう自分がやりたいことにだけ集中してやりきってほしい気もちで揺れる…のは私の勝手な、私の問題なんだけどね。

 

兵役義務を履行して、ある意味そこから自由になって迎えるはずの2025年まで、私たちは東アジアに軍事的緊張を起こさせないために尽力するしかない。それがARMYの待ち方だから(なかなか大変な「出待ち」だけども)

再び結集した7人が次にみせてくれる世界のために。

そしてともに、暴力のない世界をめざすために。

 

19日追記

[BANGTAN BOMB] j-hope’s Entrance Ceremony with BTS - BTS (방탄소년단) - YouTube

これがきて、ナムジュンが「寂しい」と涙ぐむのをみて、激しく落ち込んでおります……。

上にあんなこと書いたけど「それが韓国人男子の義務だから」で、割り切れるわけないよね。割り切らなければ仕方がないから、みんなそんな顔をしてみせるってだけで。仮に兵役を拒否したら、と考えてみる。そういう色がついてしまうことが、今後の活動にどう影響するのか、それがどれほどグループにとって、個人にとって、リスキーなのか、私には想像がつかない。良心的不服従がそれとして成り立つ社会情勢でもあれば、また違うのかもしれない。……そんなふうに考えたとき、「ただ音楽が好きなだけ」の「そんな特別な奴じゃないんだよ」の「ごく普通の韓国人男子」という身の丈を繰り返し語ってきたかれらに、そこを求めてはいけないよな……と感じてしまう。(これも前に考えたな、そういえば……。けっきょく同じところをぐるぐる回っている私)

 

寂しいよね。

そりゃそうだよ。

どうか元気に、決まった時間を送って、戻ってきてほしい。

どうか。

「わかりあえない」2人の恋

『別れる決心』を観た(原題해어질 결심)。

パク・チャヌク監督来たよ!大好きだよ!はもちろん、推しが激推し(笑)するものだから、観る前から期待が膨らみまくり……。期待に違わず2時間超あっという間に過ぎ去っていって、これはもう一度観ねばと思ったのにシアター上映は終わってしまった(そりゃ配信来たら観れるけども。映画はスクリーンで観たい派)。

youtu.be

え? このためにつくったの? と思うぐらいハマってて驚いたコラボMV
(推し、そのうち劇伴音楽の仕事とかしないかな…できる気がする)

 

いろいろと考えさせられてしまったので、どこからどう感想を…と悩む。

(もう映画館上映は終わったし、ネタバレしてもいいよね…)

 

どちら側で感情移入するか

前半、お堅い刑事さん(ヘジュン)が容疑者(ソレ)に恋して身を滅ぼしたよ…のファムファタルもの?と思ったけど、そこで終わらないパク・チャヌク。そりゃそうか…と後半に入ると、なぜか前半よりももっとテンプレのようなファムファタルっぽさ(?)で再登場したソレが身を滅ぼしちゃう。反転してオムファタル…の趣。

映画はヘジュンが先に登場してきて、淡々と職務をこなし、妻の求めにも応じ(この最初のセックスシーンがなんつーか無機的過ぎてちょっと滑稽だったのもパク・チャヌク映画らしいというのか)、冷静沈着、有能、堅実…な人生を歩んでいるところへ、容疑者としてソレが現れる、と展開するから、ついヘジュン目線で物語の中に入ってしまう。そしてヘジュン目線で考えると、ソレは中国人(朝鮮族)の結婚移民で(ただし渡韓の経緯は密航で、詳しくは語られないものの入管職員のジジイがソレの美しさに目を付けたゆえにあれこれ助けられ妻として安定して韓国に暮らせる身分になったのだろうと推測できる)、亡くなった夫はDV野郎で、疑わしい空気はあるけど、だとしても同情の余地が過剰に感じられてしまう…しかも美しくて頼りなげ。ダメダメ…と思いつつも気持ちが動くのを止められない。やがて無実が証明され、堂々と(?)デートもし始めて…でもそこで再び浮かぶ疑念。優秀な刑事だからこそカラクリを見破ってしまうヘジュン。見破ってしまうと「無実だ」と捜査を打ち切ったことが、優秀な刑事たる自身の「汚点」になって「何やってんだ!? チャン・ヘジュン!?」ってなるわけで。そしてヘジュンはソレを見逃す選択をして、心を病んで、釜山からイボの警察署へ異動。あぁ、ソレに出会って、心が動いたばっかりに…な展開。(ここまでが前半)

元々、イボという街にはヘジュンの自宅がある(妻がそこにある原子力発電所の技術職で、ヘジュンは釜山で仕事しながら週末だけ帰宅する「遠距離夫婦」設定)。恋の傷を癒しつつ…と毎日を何とかまっとうしていたら、そこにまたソレが登場する。しかもまた、訳のわからん男の妻になって。なんでだよ!?って当然困惑してたら、またまたソレの夫が殺されて、第一発見者はソレ。容疑者。なんでだよ!? …ソレは外国人女性で、だから韓国人と結婚するのはサバイブの方法なわけだけど、後半のヘジュンはそんなことに思いが至らないのか(?)身勝手に困惑しまくる。かつ、ソレに「捨てろ」と言ったはずの(第一の殺人の証拠になる)携帯電話も、ソレは捨てずに持っている。けっきょく、ソレの夫を殺したのはソレではなく別にいることがわかるのだけど、そこへ至るまでの過程で、ヘジュンの妻は「夫に裏切られた」と傷ついて職場の上司の元へ行ってしまい、ソレも姿を消してしまい、「なんなんだー!」(これが後半)

(雑なあらすじですいません。細かいエピソードが重層的に伏線…というよりも重層低音のようにいろんな雑音を奏で、そこに主旋律が乗っかっているような映画なので、Story説明するのは野暮なんですよね、パク・チャヌク。好きだよ…)

ところが、これをソレの目線から考え直してみると、

韓国に不法移民として渡ってきた。でも、元々ルーツは朝鮮にある(祖父が独立運動家)。「韓国の○○におじいさんの山がある」と聞かされて育ち、そういう名士の家柄なのだという母の矜持を心に抱いて、1人韓国へ渡ってきた。もうここでサバイブするしかない。そしてジジイと結婚したけどジジイはソレを「自分の持ち物」として扱い、人間として対等に愛してはくれない。もともと看護師だったソレは、その技量も買われて介護職をしているけれど、でもそれも人手不足を外国人女性で埋めているような職場(この辺は日本と事情が一緒だなと見ていて唸ってしまった)。給与が高いわけではないだろうし、仕事としてホントにそれがしたいのか? そうしかないからそうなのか? そんな生活を送りながら、夫の暴力に耐え…ていて、とうとう我慢の限界が来て完全犯罪のトリックを思いついて実行、成功した! …と思いきやの、予想外に勘の鋭そうな刑事が出てきてしまう。でも、私に対してちょっと甘い? あー、こいつもか。…と最初はいぶかしみ、外国人の女だと同情して舐めているなら、そこを利用してやろう…。毎日、尾行して監視される。でも、合間合間の、ちょっとした親切に心が動く。悪い人ではない。少なくともあのくそジジイよりよほどまし。…この人と結婚できたら、安心して暮らしていけるんじゃない? そう思った矢先、トリックがバレる。あー、終わった…と思いきやの、見逃してくれるヘジュン。

たぶんそこで、本気の恋に落ちちゃったんだと思うんだな…。

「一緒にいることが2人のためにならないなら」というのは「Closer」の歌詞(この映画に触発されたわけでも何でもないみたいだけど、すごくぴったりなのに驚く)

ヘジュンを追うことなく、離れたものの。生きていくために外国人女性の独り身というのは何かと不自由なわけで、経済アナリスト(?)の妻に収まるけれど、こいつがまた詐欺まがいの投資話で儲けているからあちこちから恨みを買っている。なんでこんなクズ男…でもしょうがない。ヘジュンは捨てろと言ったけれど、「もう僕は完全に崩壊した。これは海へでも捨てなさい」と言ったヘジュンの声が録音されていて、捨てられない。ソレにはそのことばが「愛してる」に聞こえるんだもの…。(で、ここは私の推測だけど、その録音をひそかに聞いて心慰めていたつもりが、どこかで夫に聞かれていて、イボの市場でたまたまヘジュン夫妻と出くわしたときに、クズ夫は気づいたと思うんだな。「あ、こいつソレとできてたんじゃね?」となると、よろしくないところからの借金やら詐欺被害を訴えると怒っている人やらに追い詰められているクズは思うよね。恐喝して金づるにしようって…)で、実際にクズ夫がヘジュンを脅そうと考えているのを知ったソレは、こいつを何とかしなければと思う…。思うよね…。そして、ヘジュンを守るために消える(実際には守れてないけど)。

…というのを考えたくて2回目観るつもりが。

「立場の違い」からくる、わかりあえなさ

「同情は恋の始まり(Pity is akin to love)」を「かわいそうたぁ、惚れたってことよ」と翻訳したのは夏目漱石。ヘジュンの恋はまさしくそうやって始まったと思う。でもソレは、確かに社会的には非常に弱い立場にあったけれど、人間性として弱かったわけでは全然ない。むしろたくましくサバイブしてきた人で、話したり行動を追いかけたりしているうちに、ヘジュンにもそれはわかってきて、だんだん対等な「恋」になっていったのだと思う。もともと理系技術者の聡明な妻と結婚したような人だから、賢い女性は嫌いではないはず。ソレの側から言わせれば、若くて美しいことだけに目をつけられ、立場の弱さにつけこまれ…してきたなかで、最初こそヘジュンも同じ穴の狢だったとはいえ、だんだん対等に話ができるようになり、自分を尊重してくれていると思えるようになって「恋」になったのだと思う。

でも、ヘジュンはなんやかんや言ってもやっぱり価値観マッチョの普通の人。料理をつくったり、妻の主張を素直に聞いていたりと、韓国人男性にしては(失礼…でもそういう人物造形を狙ったんだと私は思う)フラットで優しい感じを醸し出してはいるけれど、「仕事できる俺」という自己像に過剰にこだわっているし、人に助けを求めるのも下手。あくまで自分の方が上という状態でケアする/されることに心地よさは感じるけれど、一方的に同情される、守られる、保護される…のには耐えられない(これは全編通じて妻とのやりとりに滲み出ている。そしてそれがおそらく夫婦の破綻の原因なのに、ヘジュンは「浮気がバレたから」みたいな認識しか持ててないんだろうなと思う)。

そして、ソレの立場はさらに複雑というか…。韓国で朝鮮族の中国人は外国人労働者として利用され、見下されてきた経緯がある(朝鮮族はことばに不自由しないし、出稼ぎ労働者として都合よかったんですよね…日本で日系外国人に目をつけられたのと似ているかもしれない)。そして朝鮮族側からも出稼ぎ先として韓国をめざす人が増える。ただ、ソレはその流れに乗ってきたとはいえ「独立運動家の孫」。つまり韓国内では一定尊敬されるはずの血脈の一員なわけで(だからソレの夫はそこを調査して書類をつくり政府に申請して認めさせ、不法移民の不法性を帳消しすることに成功した。入管職員という設定/権力描写が効いているエピソード)。ソレにしたら、尊敬する家族のルーツの地で「外国人」として軽んじられながら、一人ぼっちでサバイブしなければならないのだから、心中は複雑だろうし、精神的も肉体的にも強くならざるを得ない。ヘジュンの立場からは、社会の周縁に追いやられたアウトローの世界として見下ろされているところに、ソレはいる。そんな力関係の圧倒的な偏り。

そのことを、たぶんソレは気づいていて、ヘジュンは気づいていなかったんじゃないかな…。

お互いに好きだけど、実は思いがものすごくすれ違っている。

悲劇的に描かれる恋の物語は、だいたいがそういうことなんだけども。

この「すれ違い」の起きる条件付けに、韓国現代社会の課題をこうしてぶっこんでくるのが韓国映画のすごさだなぁと思う。そんなこと知らなくても、スリリングな恋愛映画として十分に楽しめるけれど、社会に何重にも張り巡らされた階層の違い、移民・エスニックコミュニティ内のしがらみも含め、周縁化されたマイノリティが生きる世界を映し出す細かいエピソード。アウトローにならざるを得ない人びとの視線がとらえている「世界」と、マジョリティ側の「主流の秩序」を守って疑いもせずに生きていける人の視線がとらえている「世界」の違いがぶつかり合い、そのはざまで生まれてしまった恋が、軋んで押しつぶされていくような、そんな映画だったな…と思います。

人間はわかりあえないから友情も芽生えるし、恋もすると思っているので、「わかりあえない」から恋愛できないとはまったく思わないんだけど、

でもどんなにコミュニケーションを取っても、相手のことばだけで理解しきれない「世界」が相手の背後には広がっているのだということがある。そこを理解するためには、ことばだけではダメで、実際に「世界」を行き来する体験が(お互いに)いるんじゃないかなと思う。まぁ、そんなややこしいこと考えない「行きずりの恋」的なものでいいのなら、それもありだろうけど(私個人はそういうの苦手ですが)

でもなんていうか、この「わかりあえなさ」の背後にある社会というのかな。鈍感だからとか、無知だからとか、そういう人間性の問題ではなくて、恋愛もやはり社会に生きる私たちの間で起きることである以上、社会のあり方が影響するということ。どんなに「わかりあいたい」と熱望しても、断絶をもちこんでくる社会があったとして、じゃああなたはどうする? という問いに出くわしたときに、その恋はどうなるんだろう…ってことを考えるのも大事なのかもしれない。

 

その他、もろもろ。

・いろんな位相の暴力描写が折々挟まれるのも効いてたなと思います。それぞれの暴力は、物語の流れとして理由付けされているから、当然、登場人物の怒りの表出だったり支配の道具だったりしますが、それだけにとどまらない文脈的効果というのか…。暴力が発動するのはやはり「強い立場→よわい立場」で、そこに個人対個人の関係性というより、社会的に持たされてしまった/持たされることのない「力の違い」がみえたなぁという気がするのです。ストーリーとしてはヘジュンとソレの恋なんだけど、ストーリーの枠組みに社会構造ががっちり描きこまれていて、それに沿った小ネタが選択され放り込まれて、いろんなことを考えさせられてしまう。仕掛けられてるわ…と。

・個人的には「私は完全に崩壊した」「あなたの未解決事件になりたかった」等など、「好き」「愛してる」は一切なしで、痛切に好きなんだな…と思わせちゃうセリフにやられました。チョン・ソギョン脚本家! ブラボー! 簡単に「好き」とか言ってんじゃねーよ!という気分になりました(って誰に向かって…笑)。映画はこうでないと。脚本を買っちゃう推しの気もち、わかるよ…。

・そしてセリフでいうと、翻訳アプリを通すやり取りがところどころ入るのもおもしろかった。最初、ソレはアプリの設定を男声にしてるんですね。だから、ソレのことばなのだけど、男声になって意味がヘジュンに届く。女声か男声かで、確かに聞こえかた変わるよなぁ……と感心しました。たぶんソレはふだんから舐められてるから、自分のことばが少しでも相手に強く響くように、舐められないように、男声に設定してるんだろうな、と。それが途中から女声になるんですよね。それが、ソレの心境の変化なのか、単にスマホが変わって設定し直してなかったからなのか(と思ったけど、韓国でもデフォルトは女声なんだろうか?)……。そこも気になるからもう一回観たい……

・1回だけキスした…あとが、超絶エロかった。簡単に寝てんじゃねーよ!という気分になりました(これまた誰に向かって…笑)。恋愛映画はこうでないと。いや、きれいにエロく撮られたラブシーンは嫌いじゃないけど、微かに手が触れるような描写にぞくっとくるのも、ラブストーリーの醍醐味ですよね。久しぶりに切ない恋を堪能したなという気もちです。

・こういう、説明しづらいストーリーとか、「え、いまの何?」と考えていると置いていかれる小ネタの多さとか、そういう複雑な映画が好きだな、と再認識。スカッと爽快!みたいな映画も好きだけど、観たあと何日も考えてしまって、何度も観たくなる体験っていいなぁと久しぶりに映画オタク全開になりました。ありがとう、パク・チャヌク

 

「嫌韓」という表現について

Twitterをぼんやり眺めていたら、BTSメンバーのコンサートに絡んで「家族が嫌韓気味だから(コンサートに行くのを)許してもらえないかも」的なTweetと、そこに「わかりみ」「うちもです」…と共感?Tweetが続々つながるのを目にしてしまい、呆然とした。何の地獄ですか、ここは……。

とはいえ、その後の経緯もぼんやり眺めていたら、これはちょっときちんとした説明がいる問題だなと思ったので、こんなものを書き始める次第です。
(大阪のおばちゃんはお節介が身上です)

 

まず、そもそも大人なんだから、自分がやりたいことやるのに誰かの許可なんていりません…。もちろん、生活を共にする家族とは家事タスクの分担等々の調整は必要でしょうから話し合いは必要でしょうけど、たとえ家族でも自分以外の人間の行動を一方的に制限したり命令したりするのは人権侵害です。まして「相手はそれに従って当然」だと考えていたとしたら、それはDV加害者予備軍です。ここでそれは本題ではないので置いときますが…。

ここで考えたいのは「嫌韓」という表現が意味すること、その社会的文脈と日本社会のレイシズムについて、です。

 

嫌韓」が広げたレイシズム

注)本来はその語が誕生し登場し世間に広がるに至った経緯を語学誌的に調べる必要がありますが、そんなことしたら気分が滅入って立ち直れなくなりそうなのでやりません(すいません。でもLove Myself なんで。私は私自身の心身の健康を優先します)。なので、私自身の体験と記憶に沿っての話になりますが、おそらく大筋は外れていないだろうと考えます。

まず、世間に広がっていったきっかけは、2005年頃に登場して売れてしまった『マンガ嫌韓流』だと思われます。それまでもネット上では使用されていたと思いますが、当時のネットユーザーはパソコンを使える人たち中心だったし、SNS隆盛前だったしで、やはり公に書籍として出回ったということが大きかったのではないかな。私も本屋でこの表現を知りました。時はちょうど第一次韓流ブームの頃で「韓流が嫌いってことか?」と手に取った私は仰天しました。酷い民族差別をあからさまに垂れ流す内容だったからです。いつまで宗主国のご主人様気取りなんだよ…と愕然としたし、日本社会ヤバいな…と思いました。

そして、そのヤバい予感は的中し、嫌韓」という表現はそれが露骨な差別であることを覆い隠した「単なる好き嫌いの表明」かのような装いによって世間に広がり、カジュアルに娯楽のようにヘイトスピーチを消費し、ヘイトデモに合流する人たちを生み出して、2007年の京都朝鮮学校襲撃事件をはじめとする複数の暴力事件(ヘイトクライム)や、2013年ごろをピークとするヘイトデモの頻発という事態を引き起こしていきました(2013年頃がピークというのは、街頭やSNSで「ヘイトスピーチをするな」とカウンター活動を必死になって行った市民の行動があったからです。街頭に出て直接ヘイトスピーカーと対峙し、SNSで地道に反論し、SNS事業者に対応を迫り、行政や国連の人種差別撤廃委員会に問題を訴え…と積み重ねた末に、ようやく2016年にヘイトスピーチ解消法が成立し、街頭での差別デモはずいぶん減りました。差別は勝手に消えていったりマシになったりはしない。闘わなければなくせないということを、当時カウンターにかかわった人たちは痛切に感じたし、いまも個々にいろんな活動をされている人が多いです)。

冒頭に書いたTwitterでの書き込みなどを見ていると、単なる好き嫌いを表すような感覚でカジュアルに使われてしまっているなというのが私の印象で、そこに危機感を覚えます。上記で説明したように「単なる好悪感情を指す表現」ではないからです。その点よく知らずに、単に「うちの夫、韓国のことあんまり好きじゃないのよ~」ぐらいの気持ちで「嫌韓なのよ~」と使っている方には、「うちの夫、ゴリゴリのレイシストなのよ~」と言ってるのと同じですよ? それ大丈夫ですか? とまず知ってほしいです。

なぜ「嫌韓」≒レイシズムなのか

レイシズムは、日本語では通常「人種主義」と訳され、人種差別問題のことを言ってるのだと多くの人が理解していると思います。そして、人種差別というと真っ先に黒人差別が浮かび、それゆえ「日本には関係ない」と考える人が非常に多い(日本に暮らしている黒人/肌色が褐色系の人たちに対する差別のことも知らないから、というのもありますが)。

しかし日本も批准している「人種差別撤廃条約」の定義に照らせば、日本で「人種差別」にあたるのは国籍のちがいや民族のちがい、出自のちがい等を理由にする不利益対応、それらの人びと(文化的・民族的少数派)が基本的人権をまっとうして暮らすことを妨げる効果をもつ言動や制度の不備なども「人種差別」の範疇に入ります。だから、日本にも人種差別・レイシズムは「ある」わけです。そして、アメリカで人種差別というと真っ先に黒人差別が浮かぶのは、そこに奴隷制の歴史的文脈があるからです。北米やオーストラリアなどで深刻なレイシズムのターゲットになるグループが黒人や先住民なのは、歴史的に侵略され自由を奪われ支配―被支配の関係におかれた、帝国主義植民地主義の文脈のゆえです。白人中心の国で有色人種がターゲットになるのはアジア・アフリカ侵略・植民地化の歴史ゆえ。世界中の国や地域で、誰がレイシズムのターゲットになるかを決めているのは、そこにある歴史的な文脈です

したがって、日本でレイシズムのターゲットになりやすい、なっているのは朝鮮半島にルーツをもつ人びとであり、かつて「大東亜共栄圏構想」のなかで「家長としての大日本帝国に従うべき」とみなされ、侵略され支配されたアジア地域、及びそこにつながる人びとだということになり、現にそうなっています。「嫌韓」「嫌中」といった造語が生まれて定着するのに対して、「嫌米」「嫌仏」といった語が生まれないのも、この文脈の有無のためです。

そして重要なのは、レイシズムは「いま・ここ」に生起する問題である以上、国内問題であり、外交の問題や他国の政策の問題ではないということです。ここがごっちゃにされることで「いや、差別する気なんてないけど、韓国の政策はなってないよね」「国家として信用できないから、好きにはなれないよ」等の言い訳を許してしまったり、問題が何なのかを考えずに済まされたりしている、それは副次的な問題かもしれませんが、直接標的になってしまう人たちからしたら、たまったものではありません。「国を非難しているのであって、あなたとは関係ない」とマジョリティ側がいくら思っていたとしても、実際には他国の政策への非難がそのまま「あなたの国ってさ…」とぶつけられ、現実に朝鮮学校の制服を着ているだけで「ミサイルを何とかしろ」と殴られるといった被害が生じる以上、マイノリティ側は警戒せざるを得ません。つまり、発言した人の意図がどうであれ「そのことばの背後にへばりついた社会的文脈」に差別がある以上、発言者の意図を超えたところでマイノリティに打撃を与えてしまう、そういう「差別の効果を発揮する」わけです。さまざまな差別や人権にかかわる国際条約の1条・2条あたりを読んでいただければわかりますが、これらの条約では差別を「具体的に観察可能な不利益状況」によって判断するのであって、そこに行為者の意図があるかないかは別の問題です。もちろん意図して行われた差別行為には厳しく臨む必要がありますが、特段の意図がなくても、その行為の結果、効果として差別が認められた場合にも、それを差別と認定し、改善を図る必要がある…というのが、国際法の考え方です(したがって、よく「差別禁止法」の話題になると「内心に干渉するのか!」と色めき立つ人がいますが、内心は表明されない限り「観察不可能」なので、規制も禁止も不可能です。ただ、内心は日々の行動ににじみ出るものですよ……にじみ出たそれが、外形的に差別だとハッキリ判定できたら、それは規制されますよ? ということです)

 

BTSレイシズム

BTSに関していうと、かれらが世界的な名声を得ていることが、「嫌韓レイシスト」には気に食わないのでしょう。だからまさにレイシストたちから「象徴的な標的」という役割を背負わされてしまったな…と私は感じています。ホワイトハウスに呼ばれるなど「社会正義の体現者」的イメージも強まったことが、余計にレイシストを苛立たせるんでしょうね…。だから「反日」レッテルを貼ることで「嫌韓」を正当化しようとする、その屁理屈に利用されてしまったことがイルアミの一人として申し訳ないし、BTSの活躍で朝鮮半島にルーツがあることにポジティブな思いを育めるはずの子どもたちにも申し訳ない。自分のルーツだけでなく「好き」まで否定してくるレイシズムの方が何倍も悪いんだよ。あなたたちは何も間違ってないし、好きでいいんだよ! とおばちゃんは思っていますよ…(急に変なモードになってしまった…。ちなみに「反日」は嫌韓レイシストが自分たちを批判する人間に与える称号だよなと私は思っています)

 

BTSが好きかどうかは趣味嗜好の問題だから別に嫌いでもいいのですが、「嫌韓」はレイシズムなので看過できません。音楽やダンス、パフォーマンスの好みは人それぞれで全然OKな問題だけど、説明してきたように「嫌韓」は単なる好き嫌いではないからです。「嫌韓」を表明し、かつBTSに難癖をつけたがる人たちは、おそらく頭のなかが大日本帝国のままで、戦後民主主義日本の価値観が身についておられないのでしょう……。大日本帝国、要は朝鮮半島を植民地化し、周辺アジア諸国の兄貴分として偉そうにふるまい、力づくでそれらの地域の人びとを支配して思い通りにしてよいという価値観を根深く内面化して生きていた人たちの国が懐かしく、そこに戻りたいのなら、もうどうしようもないレイシストですが、いま何とはなしに「嫌韓」と口にしている人のほとんどはそこまで考えていないと私は思います。だから立ち止まって考えてほしい。

 

嫌韓」という表現のいちばんの問題は(繰り返すようですが)、単なる好悪の表現だとカジュアルに使用されることで、日本のレイシズムの現状を追認し強化する効果を発揮してしまうことにあると思います。深く意味を考えずに使っている人には、どうか立ち止まって考えてほしい。何がダメなのか、なぜそんな効果を発揮してしまうのか、腑に落ちるためには日本と朝鮮半島の関係(少なくとも20世紀以降、東アジア全体の歴史を含め)を学ぶ必要があるので、一朝一夕に「はい、わかりました!」は無理だと思います。なので、少なくとも、「自分は差別に加担したくない」という点で同意をいただけるなら、安易に「嫌韓」という表現を使うのだけはやめてほしいのです。単に好悪について語りたいなら、そのことがわかるように、何がどう嫌いなのかを別のことばで説明してください。あなたが「嫌韓」という表現で伝えたいことが何なのかを丁寧に考えてほしい。そして丁寧に考えたとき「差別したいわけじゃない」と思うなら、その表現はふさわしくないということです。自分の思いにふさわしい表現を丁寧に探す、それもLove Myself、自分を大切にする第一歩だから、レイシストが編み出した「嫌韓」なんて表現に絡めとられないでください。

 

私はレイシズムと闘うARMYです。

BTSの楽曲は、そんな私の背中を押してくれています。

世界中のあらゆる暴力にNoを。それがBTSの世界観だから、私はともに歩みたい。

Change ではなく Transformation を(4年前に書いたことに+αして再掲)

「J-hopeが兵役履行手続きに入りましたことをご報告します」と公式発表が来た。

そっか。ジンニムの次はホビたんなのか。

悶々としながら、「Jack in The Box」を、「=(equal sign)」を聴く。

怖がりで、優しくて、誠実で、几帳面で完璧主義。

あんなに繊細で優しい子が、軍隊か…(と、きっとこれから何度も同じことを思う)

 

社会を変えたい

「活動家ですか?」と訊かれることがある。さて。活動家なのかな?と考える。

活動家でありたい、とは思う・・・というより、人権を考えたり教えたりしているから、今の社会がこのままでいいとは全然思っていない。私があっちこっち学びに出かけたり、友だちと話をしたり、そういった一つひとつが基本的には「社会を変えたい」という思いにつながっている。そういう人間を「活動家」と呼ぶのなら、活動家なんだろうな。

まぁ、人から見てどう見えるかという問題なのかもしれない。そこは。

変える、変化・・・というとき、私が志向しているのはTransformation(構造を変える)だ。4年前、SDGsの特徴である「変革性」は「Change ではなく Transformation なのだ」という説明を聞いて、「それそれ!」と思った。

目の前に公正でないできごとがある。あるいは

困っている人がいる。あるいは、自分自身が困っている。

そんなときに、この目の前の状況を何とかしたい、よい方に変えたいと願うのは、おそらく誰しもに起こる心の動きだろう(もちろん、厳しい状況のなかでそう願うことすら奪われてしまう人たちもいる)

いまの日本社会は、そういうときに「個人の努力で乗り切ること」があたりまえだと思いこんでいる、自己責任教の社会だと思う。だから本屋に行けば自己啓発本が平積みだし、地下鉄などに乗っていると、その手の本を熱心に読みふけっているスーツ姿の若い人が常に何人かいる。

でも、それっておかしいよね? と思う。
社会の側は1㎜も変わろうとせず、個人にばかり変化(chenge)を求める。

私がBTSに沼落ちしてしまったのは、かれらの歌に《Change ではなく Transformation》志向を感じているから、というところがある。本人たちはものすごく努力をしているけれど、社会矛盾をごまかす方向にはがんばらないというのか。自分自身のために、自分を守るために、怒ったり泣いたり笑ったりとエネルギーを惜しみなく使うけれど、社会の矛盾を引き受けてごまかすためにがんばりたくはないし、そういうがんばり方はしなくていいよ…というところで堪えている感じがする。だからこそ、徴兵制という巨大な暴力の構造に飲み込まれていくことが悔しくてたまらない(それは前にも書いた…)

 

韓国でも日本でもSDGsは流行りだ。環境問題への取り組みが中心だけど(そこに限っても韓国の方が本気度高いなと思うことが多いけど)。でもどちらにしてもあれこれ取り組みはしつつ、社会の構造上の問題にきちんと切り込めている感はない。

社会の側に問題はないのか? あるから、SDGsなんじゃないのか? の問いは、おそらく世界中どの国も「そこを突かれると痛い」問いだと思う。

《Change ではなく Transformation》ができないまま、ずるずると21世紀に突入して、挙句がいまの戦争だ。2030年までに17の目標…の前に戦争を終わらせる努力をしなければ、なのに。

 

官民「協働」…は、Chnge止まり

とはいえ、大きなことは考えにくいので、自分の身の回りで、
NPOが請け負っていること・・・を考えてみる。
(なぜって、いま日本で人権が危うい位置にいる人たちの支援をしているのはほとんど民間団体だから。ウクライナからの避難民の人たちにしたって、最初の数ヶ月こそ、いいカッコしたい人や企業が沸いたけど、1年経った今、「支援に甘えるな」ともっともらしいことを言って一方的に手を引く輩が続出している(その結果どうなるかわかってんのか? その人が死ぬぞ? と思う。なぜ手を離せるのか、不思議で仕方がない・・・)。けっきょく、引き受けているのは長年難民支援や移住労働者支援をしてきた団体や個人、子どもたちを受け入れた学校…と、これまでもやってきた人や地域になっている)

いつからか「協働」ということば、方針が出されて、行政の仕事を、行政と市民が「ともに担う」スタイルが広がった。そこにはもちろんメリットもあるのだけれど、そのスタイルで数十年やってきた現在を考えるに、メリットより害が大きいのではないかという気がしている。

NPOの人間も霞を食って生きているわけではないから、暮らしていけるだけの給与がいる。そしてNPOも組織である以上、組織体を維持するためには経費がかかる。

企業や行政では手が届きにくい、隙間を埋める動きが柔軟にできる・・・というのはNPOの強みだ(それがあるから「協働」というアイデアが出たのだとも思う)。私が知っているのは教育・福祉関係、国際交流や国際支援関係の団体が多いから、余計にそう感じるのかもしれない。収益が見込めない、法に定めがない、制度でカバーしきれない・・・そんなところで生じる困りごとの解決に、NPOは役だっていると思うし、それは悪いことではない。

だがしかし、だ。

たとえば、海外から日本に来たばかりで日本語がわからない子どもたち。その日本語指導や、日本の学校に不慣れで戸惑う親子へのフォローなど、本来は学校や教育行政で請け負うべき仕事のはずだけれど、今の学校のシステムはそういう子どもの存在を想定していないから、その場その場で「できる対応」を考えてやるしかない、現場任せ。しかも現場は超多忙だ。通訳支援員も正規の職員として雇う手だてや予算がない。そこで地域の国際交流団体やNPOに声がかかる。目の前に困っている子どもや親がいるから放置できない。だから請け負う。子どもや親が助かってよかったよかった。そして、NPOにもそれなりの委託料や謝金が入って(とはいえ、金額は非常に低い)、役に立ててよかったよかった・・・ほんとうにそうか? ということ
(ちなみに、2022年、ウクライナ避難民バブル?と呼ぶべきか…唐突に予算がついたりした。でも、困っているのはウクライナから来た子どもたちだけではないし、昨年突然「外国からきて困っている子ども」が登場したわけでもない。もちろん戦争からの避難という事情への配慮は別途必要だと思う。けれどそれにしたって、ではシリアから避難してきた人たちは? ミャンマーは? アフガニスタンは? と、これまでガン無視されてきた人たちを思うとモヤモヤする…)

民のパワー、官民助け合い。それで助かる人がいて、よかったよかった。
・・・ではなく、そこで隠されてしまうのは何か、ということも考えなければいけない。

 

たとえば・・・学校の枠(フレーム)が、もう少し柔軟であればなぁと思う。

たとえば、日本の小中学校は留年や飛び級を想定していない。制度として留年できないわけではないが「〇歳は〇年生」という縛りにこだわるし、飛び級は認められないから、来日時に1学年下に編入して、進度に合わせて飛び級させるというような対応ができない。これは義務教育段階でも留年ありの学校文化出身の保護者にすれば、日本の子どもたちは全員が学年相当の学力を1年以内に身につけて進級している、と映るのだが、ほんとうにそうか? そんなことはないはずだ。

たとえば、学級担任が2人態勢なら。

たとえば、1クラスの定員が20名程度であれば。

いまここにある学校の定員や予算、仕事量を1㎜も変えずに、そこに日本語のわからない転入生を迎え入れるから「手が回らない」のだと、忘れてはいけないと思う。ぶっちゃけて言えば、学校を変えることができず、予算を要求することもできないから、低予算で請けてくれるNPOに仕事が投げられているという現状を、関わる人たちの献身やサポートされてホッとしている人たちの笑顔で美談にしてはいけないということだ。

いびつだ。フェアじゃない。

特に教育や福祉など人に関わる仕事の場合、NPOなどに外部委託することで人件費コストを下げる・・・ことは同時に学校や行政から「経験の蓄積」 を奪うことでもある。つまり、外部の人に対応を任せている分、内部の人が育たないということだ。ケースワークは経験知なのに、経験知が育たない。外部組織への委託、競争入札・・・請け負う団体が入れ替わるたびに、情報の蓄積はチャラになり、ゼロスタートになる。

 

そして学校に関していえば、いまある枠組みを変えず、人件費を抑制するために「チーム学校」「学校と地域の協働」といった、いかにもよさそうなアイデアが提示されている。でもその中身は非正規雇用のカウンセラーや指導員を増やすだけで、子どもに関わる仕事に責任を持って取り組める条件整備とは程遠い。学校の枠は変わらず、ただ非常勤の助っ人が付け足される。1年契約の不安定雇用に、喜んで長く務める専門家がいるだろうか? 長い目で見れば、かえって高コストではないのかと思うけれど。

・・・と、どうしていいのかわからないことだらけだけれど、いま・ここにあるシステム(構造)の問題を変えること(Transformation)は諦められない。

それは同時に、いま困っている人たちの困りごとが、その人たちの努力不足や失敗の結果などではなく、構造的に生じてしまう問題だというとらえ直しを怠らないということでもある。構造上の問題だから努力しなくてもいいというわけではないが、努力すれば確実に報われる仕組み、努力する方法にアクセスしやすい社会であれば、充分に努力できる人たちを、社会の側が疎外していることだってある。その疎外を問わないまま、自助努力にだけ責任を負わすのはフェアじゃない。
(さらに言えば、自助努力、自己責任を過剰に強いる社会のなかで、「困っています」といえず、支援につながらない人たちが、支援につなっがった人の後ろになんなんと隠れていることも「隠されてしまう問題」の一つだ)

 

思い出した詩・・・金時鐘「いぶる」

猪飼野詩集』1978 で有名なのは冒頭の「見えない町」

なくても ある町。

そのままのままで

なくなっている町。

電車はなるたけ 遠くを走り

火葬場だけは すぐそこに

しつらえてある町。

みんなが知っていて

地図になく

地図にないから

日本でなく

日本でないから

消えててもよく

どうでもいいから

気ままなものよ。

 

 この冒頭部分の朗読を大学1回生の頃に聞き、なんだこれは! と思い・・・。それが『猪飼野詩集』という詩集にある詩の一節だと知った。その後、たまたま古本屋で見つけて、即買い。

そのなかにある「いぶる」という詩

承知で

悪いのさ。

こんなたぐいの仕事なら

いつでもありついていられる

身勝手な世間が

しゃくなのさ。

めいっぱいうごいて

うしろめたいとは

割に合わない

汗みずたらしよ。

それでいて

稼ぎときたら

正真 体を張ったものなんだ。

ぜに出しゃあ難のない

お大尽さまより

捨て去りゃ こざっぱりな

市民さんたちより

難儀を押して引き受ける

おれのこの

意地のほどがまっとうさ。 

 

 ・・・だれかの語りのようなことばが連なり、最後に、このことばを発しているのが産業廃棄物を不法に処理している人物なのだということをほのめかすようにして、詩は終わる。この詩を最初に読んだとき、それこそ的を射すぎて、というより、見ようとしなければ見えない、そのことから目をそむけている自分がいないか? と激しく問われた気がした。ショックだった。引用した部分、「捨て去りゃ こざっぱりな/市民さん」である自分を正面に引きずりだされた感覚。この数行、何度も読み返して憶えてしまった。

4年前に参加したあるイベントで、10年間引きこもりで支援され、それから働き始めて、今は支援することもやっている、という人が「そもそも、支援て、何をめざしてるの? みんなホワイトカラーになりたいの? 上へ上へ学歴上げることがそんなに大事なの?」と話し始めた文脈のなかで、産廃処理の仕事に就いていた体験談を話してくれた。それはすごく真理を突いた話で、前項の「NPOが請け負ってしまうことで隠されてしまうことは何か」という話でもあった。そしてその語りを聞きながら、私の頭の中では「ぜに出しゃあ・・・おれのこの/意地のほどがまっとうさ」の数行がリフレインし続けていた。

労働力が足りないという。求人を出しても人が集まらない、若い人はすぐやめていく、厳しい、キツイ、割に合わない仕事。だったら割に合うように、労働条件を上げろという話なのに、そうはならず、難民入管法が改正されたこの国。

厳しい、キツイ、割に合わない仕事はしたくない。そりゃそうだ。
でも、その仕事をだれかがやらなければ社会は回らない。その仕事が嫌だ、自分にはできないと思っている人たちも、暮らしが回らなくなる。だったらそれを引き受ける人たちに敬意を払え。目に見えない敬意でなく、賃金として保障されるように、社会の仕組みを考え直せ。・・・現実には、そんなことを考えもしない人たちの快適さのために、厳しい労働条件に甘んじて働いている大多数の人が見えなくされている。

社会を変えたい。

そのためには、まず見えなくされているものを、見えるように。

目の前の困りごと対応を請け負いながら、困りごとの背後にある構造を見つめること。

構造を作ったのも、支えているのも人間なのだから、変えられるはず。

 

・・・なんてことを考えながら、じゃあどうやって変えていけるかなぁという解は見えていない(笑)「見えない町」に来たければ「たぐってくるのが 条件だ。」と詩人は言った。たぐったその先で出会う人たちと一緒に、おかしいと思うことにはNoと言おう。と思う。とりあえず。

解が見えないからあきらめる。というのが、いちばんやりたくない。やりたくないことはやらない。とりあえず。

いま、いちばん言いたいのは「戦争反対」です。とりあえず。

とりあえず統一地方選で、東アジアの緊張を煽るような言動を平気でしてきたやつは全部落選させたい。そして軍備増強が抑止力になるとか言い出すやつ。ならねーよ。
武力によって平和構築はできない。20世紀にそれを学んだんじゃなかったのかよ…
…と、ブツブツ言いながらジーン・シャープの『『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』(筑摩学芸文庫)を読んでいるところです。

 

날 볼라면 시간은 7시 모여 집합
(オレに会いたきゃ「7時」に集まれ)
모두다 눌러라
(みんなで喚けよ)
062-518
(光州518) 

*「7時」は光州がソウルから見て7時の方向にあることからくるネットスラング。侮蔑的に使われることが多いのを、ここでは逆手に取っています

「ma city」より

J-hopeが歌うパート。かれに恥じないように生きたいです。