わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

学ぶ、ということ

朝ドラ『おかえり、モネ』にはまっている。

『おちょやん』が中盤ダレきっていたのに(笑)終盤にきての複線回収の見事さとシスターフッドの美しさに、これは久しぶりにロスが来るのか…と思いきや。
(ロスといえば『コントが始まる』ロス。『俺の話は長い』につづくロスだ…)

 

最近の朝ドラは戦争前後の時期を描いていることが多くて、私的には「いま何年(いつ)?」と時代考証的なことが気になって仕方がなく、無意識的にチェックして見てしまう(そしてそこがいい加減だと、いかにフィクションとはいえ乗り切れなくなってしまってフェードアウト……)
『おかえり、モネ』は久しぶりの現代劇(とはいえ、震災からの数年…という「ちょっと昔」が舞台。そういえば『あまちゃん』は震災が最後に来る構成だったなぁ。そこから数年経って、震災がスタートになる朝ドラか…としみじみ時間の流れを感じたり)。

 

前説が長い(笑)

 

ドラマはもちろん人間がおもしろいかどうかなんだけれど、自分が知らないことを教えてもらえる楽しさというのもあって、いま『モネ』にハマっている大きな要因は気象と山(林業)の話が、なんか楽しくて仕方がないからなのです(モネといっしょになって「へぇ!」「おおー」と驚いたり考えたり感心したりで忙しい)。

そうやって毎朝見ながら、そういえば「理科」という教科に泣かされ続けたド文系の私だけれど、「理科」が嫌いなのかというとそうでもなかったんよな。とふと考えるのでした。

 

そもそも、子どもって理科好きですよね。ぜんじろう先生の実験にキャーキャーはしゃいでしまうのを見てても、理科的なことを勉強するのって、好きな人は多いと思う。なのになぜか、かつての私のように「わからない」「難しい」「なんでこうなるんだ」「覚えきらん」と苦手意識が好きを上回ってしまって、勉強から遠のいちゃう人も、同じぐらい多いんじゃないか…とか。

どうなのかな?

 

先日、ようやく始まった対面授業のあとで学生さんと喋っていて。

「身の回りの体験とか、断片的に聞きかじりで知っていたこととか、自分の中で『点』でバラバラだったことが線につながっていく感覚があって、(大学での勉強が)楽しくて仕方がない」と言う人がいて、

「ああ、そうなんだよなぁ…」と。

点が線になり、面になる。

『おかえり、モネ』でモネちゃんが「おお!」となる表情もそれで、幼いころの記憶とか、おじいちゃんのことばとか、さっき見た空の様子とか、そういうものが「理科のことば」で説明されて線になってつながっていく感動。

そういえば、天気図の読み方を教わったとき、すごい感動したっけな、と思い出した。こうやって、観測データを地図に落とし込んで、前線とか等圧線とか、見えるようにすれば、次の天気が見えてくる。予測できる。人間ってすごいなぁと素朴に感動していたような気がする(同様に、地図・地形図の読み方を教わったときも感動していた気がする。それは「社会科」だった。そして理科も社会も同様に、おもしろいし感動するのに、点数が取れない、覚えきれない、知ったことをうまく使えない…で苦手教科と化していったのが中学時代だった。なんでなんだ…)

 

時代考証が気になる、と書いたけれど、それも同じことで、戦争前後の時期は両親や祖父母の語っていた断片的な話の記憶が、「ああ、あれはこのときのことか」と結びついてハッとさせられるとき、歴史ができごとの羅列ではなく人の営みとしてリアリティのある「線/面」になって広がっていくから楽しいんだと思う。そうやって広がることで、歴史が厚みを増していく。『ひよっこ』は高度経済成長期、私が生まれた前後の時期だったけれど、あぁ、私はこういう日本で生まれたんだなぁと腑に落ちることがたくさんあった。幼いころまわりにいた大人のことを思い出し、社会の状況が変わると大人の姿はこうも変わるものなんだな…といまの自分と比べたりもできた。

 

ドラマぐらい、そんなこと気にせずに気楽に見ればいいのに、と言われることもあるんだけど、人間は社会的な動物だから、その人の背後にある社会、もっといえば、そのドラマがつくられた時期の社会を重ねて考えることで見えてくることがおもしろい、と私は思う人なので、肩に力が入っているわけではありません(笑)すぐれたフィクションは現実よりも現実を描き出す力があるから、「点を線につなぐ」力を発揮するのだろうな。

 

そして私は勉強…学ぶことが好き(笑)