わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

先生が「自分語り」を、もっと。

先日、とある研究団体(公立小中学校の先生たち/多文化共生教育)が新人育成の場として運営しているセミナーの講師に呼んでいただきました。事務局が旧知のみなさん(というより、ふだん遊んでもらっているお仲間)なので、かなりぶっちゃけた打ち合わせをして、その結果、私自身の話をネタに、グループトークの呼び水にしよう…ということになって。

参加者のみなさんが生まれる遥か前の70年代あたりから、私自身の育った環境とそこでの出会いや当時の実感、それを大学生になり現場に出て「在日朝鮮人/外国人教育」「人権教育」の学びを通して改めてふりかえったときの気づきとのギャップ…という軸での「自分語り」を40分ほどさせてもらいました。(ホントは30分の予定が超過。申し訳ない)

すると、そこからの化学変化で、参加者のみなさんから様々な語りが展開して(それは、自分の生い立ちのふりかえりであったり、現場で保護者や子どもと出会って考えている、悩んでいることであったり、いずれにしても「わたし」を主語にした語り)、ああ、こういうのいいなぁ。こういうのが私が「人権教育」の世界に魅力を感じた入り口だったよなぁと思い出していました。

「同じ空間にいただけ」では、共生にならない

そんなんあたりまえやん…かもしれませんが。

私の話を聴いていた在日コリアンの先生が「あたりまえにいっしょに育った、というだけでは見えないこともあるんですね」としみじみ呟かれたのでした。まさに。以下、「見ているのに見えていなかった」ことを少し。

 

私は大阪・ミナミの生まれ育ちで、10歳前後に2年弱、閑静な新興住宅地で暮らした経験があるために、地域によって「あたりまえ」とされる価値観はかなり異なる(私の経験が両極端な地域によるものだからかもしれないけれど)ということを体感していました。

ミナミの小中学校には、コリア系、台湾/中国系…の子たちもいたし、老舗料亭のぼんもいれば、シングルマザー(も自分で小料理屋を経営しているような起業家タイプ、ホステスさん、ワケアリ「お父さん」がいるタイプ…と多様)もいれば…という具合で、エスニシティも親の仕事も家族の形態も、「いろんな人がいてあたりまえ」。唯一いなかったのが「一部上場企業勤めのお父さんがいる核家族」的な人。そして大阪市だったので、いまでいう特別支援学級に在籍しつつ、当該学年のクラスの授業にも参加するといった児童も「あたりまえ」。逆に閑静な新興住宅地では、父勤め人・母主婦の核家族がほとんど。衝撃が強くてはっきり覚えているのはシングルマザー(離別)への陰口、その子どもに対するからかい、けなし…「え、なにそれ?」とショックを受けているのはどうやら私だけらしいと感じたことも衝撃。おそらくそういう明確な衝撃として記憶していないだけで違和感が強かったのだろうと思います。その2年間はしんどかった(笑)

 

私の小学校入学は1973年。その前年の1972年に大阪市立長橋小学校で在日コリアンの児童・保護者の要望から民族学級が創設されます。それ以前から民族学級はありましたが(1948年、阪神教育闘争時に交わされた知事との覚書によって設置されたもの)、反差別・同和教育の取り組みから、少数派の教育権として新たに認められた民族学級は初めてでした(その後、同じ潮流から生まれた民族学級を「長橋型」と呼び、「覚書」をルーツとする民族学級と区別して論じることもあります)。そういった潮流もあって、大阪市の学校現場では「本名を呼び名のる」取り組みがすすめられていました(学校教育指針のなかでも言及)。ちょうどそういう時期だったので、小学校の卒業式前に(今思えば)外国籍の子たちだけ呼ばれて、卒業証書の名まえの表記と、元号表記を西暦に変えるかどうか、といったことの確認が「あたりまえ」に行われていました。ただ、そばでそれを見聞きするだけの私は「私も昭和より西暦がいいなぁ…」などと呑気にうらやましく思っていただけで、なぜそういう手順が踏まれているのかはわからなかったし、だれも教えてはくれなかった(けれど、それが不満というほどでもなく、先生に「なんで?」と聞くこともなく、「ええなー」「ええやろー」というやりとりだけで、すぐに忘れてしまったのですね)

大学生になって、「本名を呼び名のる」運動の経緯や理念を学んだとき、唐突に「あぁ、あれはそういうことか」と思い出しました。そうして思い出して考え始めると、そういえば中国系の子たちは民族姓を日本語読みしていたけれど、コリア系の子たちはみんな日本名だった。どちらの友だちも「日本人ではない」と知っていて、でも日常でそれを意識することはほとんどなく、なぜ日本式の名まえとそうでない名まえに分かれるんだろうかと疑問に思ったことも全くなかった…なぜ疑問に思わなかったのだろう? と自分でも不思議でたまらなくなりました。今でもこの不思議は解けていません。

 

その後も、中学校、高校と、常に在日コリアンのクラスメイトがおり、仲が良かった友だちも複数いて、いろいろな言動を見聞きしていくのですが、その一つひとつが意味を持ってつながって見えたのは、上記と同じく大学生になってからでした。知識がなかったのだからしょうがない…と言われればそれまでですが、「なんで?」と小さく引っかかったことは何度もあったのに、そこを掘り下げようとは思えなかったのはなぜなのだろう? …これは一生の問いで、この問いがあるから、私は人権教育にこだわるのだろうなぁと思います。

 

差別や人権教育について話していると、よく「子どものころ、外国人の同級生がいたけれど、みんな仲良くしてたし差別もなかった。子どもの純粋さを保てればいいのにね」といった反応が返ってきます。が、私は自分の経験から「純粋さ」≒無知で、たまたま平穏に過ごせていただけで、問題がなかったわけではないはずだ、と確信しています。

「平穏でよかった」と思うのは問題が見えていない者の思い込みに過ぎません。

思い返せば、多様な同級生がいて、人にはそれぞれ事情があって「あたりまえ」で、その事情を知りもせずに勝手な評価を下すのは失礼なことだという感覚は、その環境から自然に身についていたように思いますが、「よく知らないのだから評価すべきでない」という感覚ゆえに「なんだかよくわからないけど、何かあるんだろうなぁ」でお茶を濁してスルーしてしまう鈍感さも、私には根深く染みついているようにも思います。

だから、学びを通して、自分の経験をふりかえる、掘り下げる作業は大切。

 

そして、海外につながる子どもが増加して、存在が「あたりまえ」になっているからこそ、「気にすることができない」でスルーされてしまう、という状況は避けたい。そのために人権教育が必要だと思います。

私の子ども時代は、多様な友だちがいてとても豊かだったけれど、その豊かさをほんとうにはわかっていなかったし、やっぱり一つひとつの意味をきちんと教えてもらいたかった。そうすればただ「一緒に育った」だけではない、「共生」を深く経験できたのではないか、と思うのです。

「自分語り」を、もっと。

在日外国人教育に限らず、人権学習として「当事者の話を聴く」企画がよく立てられます。そこで期待されているのは、当事者の被差別経験の語りを聴くことで差別の実態を知り、課題を考えることにつなげたいということだと思います。

ですが、大学生はじめ様々な大人と話していると「人権教育≒差別の体験談を聞くこと」「差別を乗り越えてがんばった人の話に感動した」といった受け身の記憶しか出てこず、一体、その企画は何のために、だれがどういう目的でその人に語らせたんだろうか…とモヤモヤしてしまうのです。そもそも、その企画を立てた人はなぜ当事者に語らせたかったのか。その人自身が語りを聴いて何を考え、感じたのか。

また、「在日外国人」といっても、そもそも「外国人」とはだれなのか。差別のターゲットに選ばれてしまう人たちは国籍でも言語でも容姿でも民族でも、そのつど恣意的に線引きをされてしまう…そんな日本社会を鑑みて「外国にルーツがある」「海外ルーツいった表現を使いますが、その「ルーツ(根っこ)」ということばに引きずられて、該当する子どもや保護者の「ルーツ」を一生懸命たどる(たどらせる?)作業に躍起になってしまう実践も少なくないのですが、他者に自分や家族をふりかえらせる作業をさせるのであれば、まず自分自身もふりかえる作業をすべきではないのかなぁと思います。

 

「当事者」の語りを聴く。自分がその同じ時代にどんな風景を見ていたのか。その違いと共通性。あるいは、同じ年齢のときに、どんなことを考えていたのか。その違いと共通性。そうやって考えながら聴くのであれば、そこで考えたことをふりかえりとして自分自身でも整理しておくべきでしょう。なぜなら差別は社会に存在する「構造」だから。いま語っている人が差別を体験し、あるいは見聞きして煩悶していた裏側で、その差別が見えず、思いが至らないまま暮らしていた「わたし」の存在をセットで考えなければ、構造は見えてこないのです。

 

そして、差別がある社会のなかで暮らしている以上、一人ひとりが何らかの抑圧や理不尽を体験もしているはずで、それがどういう社会情勢やその時々の「大人の都合」を反映したものだったのかを考えることも、人権教育の仕事ではないかと思います。「差別されてかわいそう、気の毒」な人がいる社会は、知らず知らず差別に加担する人をつくり出し、差別ではない人権侵害も起こしているはずです。他人事のように同情して済ませる話ではない。そのことを明示するためにも、まず教師(人権教育をしようとする人)自身が、自分を開いて語ることを、もっと追求しないといけないだろうなと思います。そしてだれもが、自分を形作っているストーリーを語れる、それがあたりまえの社会をめざしたい。

 

いまは、自分語りどころではない、教師にそんなことをさせたくないから多忙にしているのではないかと思うほど、現場は大変だけれど。だからこそ「わたし」を大切にする時間や場をつくり出し、守っていこうとする若い人たちに勇気づけられてもいるのでした(某セミナーのみなさん、これからも、ともに!)